2014年2月23日日曜日

食べないのに何故買うの?

母の冷蔵庫、見ていてとてもげんなりする。

食べないのに、スーパーで見て「食べたくて買った」というキノコが料理もされず、生き絶え絶えになって救いを求めている。

高価な野菜も、調理を待ちくたびれて「ふて腐れて」いる。

仲間の会で配られたお菓子、「要らない」と断れなくて冷蔵庫の箱に放り込んである。

賞味期限は見たくもない。

町内会の宴会などで配られる100円ショップのお菓子も例外ではない。
だって、母はお菓子が嫌い、私は食いしん坊だ。

不味いものは食べない。

だから、そのまま、別の老人会に持って行かせている。
少なくても、そこなら食べたい人が居る。

この飽食の時代、人は食べ物を「とりあえず」買う。
企業は潤うけれど無駄な行為だ。

そんなことを10年続けた母、最近少し変わり始めた。

私は母が何をしても怒らない。
でも、母に美味しい野菜を腐らせているのを見つけた時は、怒る。

「どれだけ、苦労して農家の人がこの作物を作っているか、考えたことがあるか?これを腐らすことは、彼らの労力をゴミ箱に捨てることなんだよっ。」と繰り返して説明してきた。

この説明は、彼女が自分の「消費行動」を振り返る結果になったようだ。

そうやって、食べ物を腐らすことが、どれだけ彼らに失礼な行為かを意識し始めた。

以前、彼女にとって食べ物は「金で買うもの」だった。
今は、そこに「生産者」をイメージできるようになった。

そして、大企業の消費洗脳の戦略も。

だから、「買う商品」や「買う量」を考えるようになった。
結果、「食べられない食べ物」を見る「量」が減った。

行動が変わる。
これが重要だ。

食べられる量だけ買う。

野菜や肉を食べる時、生産者を思うことで消費者の行動は変わると信じている。

でも、時に食欲は暴走するけどね。

2014年2月22日土曜日

カビが生える安心

実家に戻る前に切り分けたかぼちゃ半分、冷蔵庫に残していたらカビが生えた。

しかも、白、赤、黒とバラエティに富んでいる。
これを見て、つくづく地元産の野菜は「安心だ」と思った。

大体、東京で買っていたメキシコ産のかぼちゃ、2週間以上たってもカビは無かった。

ある時は、黒く傷んでいた。

だから、3色のカビが生えるいうのは、それだけいろいろな菌がついているということ。

自分の家で作ったものならせいぜい1色だ。

ものが腐る、ということはビジネスとしては許されることではない。
だから、大企業が流通させている食べ物には、防腐剤や防カビ材を大量に使う。

でも、食べ物は腐る、そしてカビる。

金を出してそんな商品を買えば「金返せ」と言いたくなる気持ちも理解できるが、腐らない「事実(商品)」があるから「金を出す」という考え方は、本当に正しいのだろうか。

値段だけで、目に見える「食べ物」を買う判断をするのなら、確かに正しい。

でも、自分の選択は「腐らない安い食べ物」か「腐る可能性がある高い食べ物」か、となると確実に後者だ。

だって、腐らなくて安いならたくさん買う。
そして食べ残す。

値段が高いけど、腐る商品なら大切に食べる。
何より腐る安心がある。

でも、一番いいのは「安くて腐る食べ物」だ。
そうなると、地元産になる。

季節によっては商品数も限られるけれど、それはそれで豊富な時に作った保存食で補えばいい。

安全な食べ物なんていうものはない。

でも、腐る食べ物であることは「安心」が与えられている気がする。

カビを削り落とすと半分になったかぼちゃを見ながら「安全」に食うのは自分の責任、でも「安心」は生産者に頼るしかないことをつくづく感じた。

発酵バターで焼きつける「アラ」の味

先日、ハウスの友人と鍋をした。

彼女が野菜を準備して、私が魚を調達した。
生きの良いタラのアラがあったので、それを買ってきて塩と酒を振っておいた。

その2時間後、二人で準備をしていたら、彼女がアラを「バターで焼くと美味しいですよ」という。

そりゃあ、うまいだろう。

でも、ここに無い。

「私、ありますから持ってきます。」と言って部屋から取ってきたのが発酵バターだった。

ありえない・・・・。

こんな旨いものでアラを焼き付けるの?と思ったけど、言われたとおりにやった。

でも、さすがにバターをたっぷり、という訳には行かない。

値段を知っているが故に、良心が傷み、フライパンをカバーする程度にしか使えなかった。

で、結果は凄かった。
アラが新鮮だったせいもあるけれど、昆布と塩だけで、物凄く旨いスープになった。

恐るべしバター。

バターの威力は、材料が新鮮で美味しいものであればあるほど違いが大きくなるような気がする。

そこそこの素材も美味しくはなるが、それはバターのせいだ。

本領は、やはり美味しい食材と使った時。

極上のハーモニーをかもし出す。口に含んだ瞬間、舌がヨーデルを奏でる。

普通のバターでも、それほど美味しいのに発酵バターとは・・・。

ああ、もうマーガリンなんて食べ物とは思えない。

本物の味を知ってしまったら最後、もう前の生活には戻れない。

美味しいものは、消費の行動を変える。

食べ放題でもう満足感は沸かない。
健康のために食べ物を食べるなんて馬鹿げてる。

美味しいものを食べた時の感動があるから、生きてゆける。

明日は、もっとおいしいものが食べられるかもしれないのだから。

2014年2月19日水曜日

きんかんを分ける

きんかん、1キロ、なんとか調理した。

その後、シェアハウスのキッチンで友人にグルノーラの作り方を教えることになった。
だから、それをつまみながら教えていた。

オーストラリア人の住人が不思議そうに見るから、味見させた。

そうしたら「ああ、これXXXだね。」と言う。
オーストラリアでも金柑はあるみたい。

で、最近向かいの部屋に入ってきた日本人女性がキッチンに現れた。

金柑を見て「ああ、これ大好き」というから、味見させた。

「うわっ、美味しい。」って言ってくれる。

「これ、シロップがおいしいんですよね、もらっていいですか?」というからコップに入れてあげる。

「ほんと、美味しいですねえ」と言ってうれしそうに飲んでいる。

たしかに、むちゃくちゃ旨いシロップになっていた。
旨い金柑で作るから当然だけど。

「食べるなら、少し分けるよ」というと、「いいんですか?」と驚いている。

本気で好きみたい。

で、タッパに入れると「こんなにもらっていいんですか?」と恐縮している。

もちろん、大歓迎。
だって一人でなんて食べ切れませんから。

そうしたら、お礼にと言って、チョコレートとカモミールティーをくれた。

とても美味しそうなカモミールティーだ。

で、確信した。

彼女も食いしん坊だ。
きっと仲良くなれるに違いない。

そう、類は友を呼ぶ。

食いしん坊は食いしん坊を呼ぶ。

間違いない。

水を足すより不味くなるなんて・・・

しょっちゅう作る野菜のトマト煮、野菜の量が多くなると冷凍してあるトマトソースが一袋では足りない。

かといって、2袋は多すぎる。
だから、2缶で100円のトマトジュースを足そうと思って買った。
もちろん、某大企業の製品だ。

水で薄めるよりこっちがおいしくなるような気がして、ある日一缶使ってみた。

食塩無添加だし、トマトしか使われていない。
大企業が日本のトマトで作っている、と主張するのだから、安心ではある(はず)。

でも、いつもより不味くなった。

まず、ソースの持っているトマトの風味が無くなった。
味がぼやけた。

何故、水で薄めるより、不味くなるのだろう?

トマトが不味いから、としか思えないが、理由は良くわからない。

はっきり判ることは、このトマトジュース、もう二度と買わないし、使わない、ということ。

大企業のトマトジュース、無塩だし日本製ということで安心かもしれない。

でも、不味ければ買わない。

「日本製は安心だ」ということだけで商品を買うのはいいけれど、「だから美味しい」とは限らない。

水を加えるより料理の味を不味くするほどのトマトジュースを飲んで、消費者はその商品に「何」を期待するのだろう。

健康?

まさか、そんなことありえないよね。

正月料理:チキンロールから出来たもの

チキンロール、正月料理のメニューに入れてすでに3年目だ。

あまりに簡単で旨い料理だけど、最初の年、かなり味の濃い漬け汁の使い道に悩んだ。

たしか、最初の年は捨ててしまったような気がする。
八角の入った独特の味、美味しいけど和風料理には合わない。

2年目は混ぜご飯の元を作ってみた。
たしか、鶏ひき肉だった。

これがうまくいった。
もともと、味が濃いからちょうどいい。
鶏肉を漬けたたれだから、味の相性も悪くない。

レシピで料理していた頃は、食べ終わって余ったものは捨てることが多かった。

最近は、レシピを参考程度にしか見なくなったら、「どうやったら食えるのか?」
を考えるようになった。

そうすると、漬け汁や煮汁はもちろん、マリネ液をドレッシングにするなど、リサイクル度がぐんと高くなった。

そもそも、美味しい味付けの液体だ。
美味しい素材と合わせれば美味しくしかならない。

おからを煮たり、鶏肉で混ぜご飯の元を作ったり、チャーハンや野菜炒めに使えば、無駄なく使える。

混ぜご飯の元は、一回分づつ小分けに冷凍しておけば、炊飯器に放り込むだけでOKだ。

美味しいものを最後まで「食べ切る」ためには、考える必要がある。

マニュアル(レシピ)通りにつくれば、美味しくできる。
でも、レシピには書いていないけど、最後の最後まで、食べ切ることも大切だ。

だって、無駄な食べ物など無いのだから。

正月料理:たら一匹から出来たもの

正月には伊達巻を作る。

食材を買いに行ったらタラは一匹400円だった。
半身フィレが344円。

当然、一匹買うことにする。

スーパーのおばさんに解体をお願いしたが、かなり時間がかかると言われた。

あきらめて、自分でやってみたが、これが文字通り「格闘」だった。

魚はどうして、あんなにぬるぬるしているんだろう。

まず、頭と内臓を取り除こうと思って刃先を入れる。
3mmほどしか入らない。
とても「切る」なんて無理。

だから「ぶった切」った。

出刃包丁なんてもんがないから、あたり一面血だらけになる。

まるでホラームービーだ。
殺人犯の気持ちが少し判った、と言いたいけど、そんな訳ない。

食いしん坊は必死だ。
鮮度を下げないうちに解体したいが、思ったように分かれてくれない。

タラも必死だ。

でも、なんとか押さえつけて、アラと身に分けた。
切り身、なんてきれいな形にはならない。

どうせ、フードプロセッサで細かくするんだからどーでもいい。
でも、魚屋さんの職人技を心から尊敬した。

で、作った料理は、伊達巻、タラ鍋、そぼろみたいな混ぜご飯の元、から揚げだ。

タラ鍋は絶品だった。

骨についた身をほぐして作った混ぜご飯の元、正月料理に余ったレンコンと、チキンロールの漬け汁を利用して甘辛く煮た。

料理するのも全部旨くなることを知っているからやりがいがある。

鶏も魚も一匹買って料理する方がいい。
料理がエキサイティングな体験になる。

美味しい料理だけではなく、戦う楽しみも得られる。

切り身ではそういかないけどね。

2014年2月18日火曜日

ジャム3瓶、4000円以上!?

新聞社の広告記事に「砂糖不使用の有機マーマレード」という文字を見て読んでみた。

なんのことはない、甘みを出すために、りんごジュースで煮詰めたようだ。

でも、300グラムちょっとの瓶3つで4000円以上という表示を見て驚愕した。

有機マーマレードという貴重なものであることは認めよう。
でも、3つで4000円以上ということは、一瓶1300円以上だ。

有機フルーツではないけれど、旬に作った時の私の葡萄ソース、砂糖も含めて1キロ500円程度だったような気がする。

この有機ジャムの約10分の1だ。

高額なものは大抵おいしい。
だからといって、4000円出してジャムを買う感覚は理解できない。

値段の妥当性などどうでもいい。
大体、商品の値段などあってないものだ。

でも「高額なものは、安心でおいしい」という価値観を露骨に見せられるようなこの商品に対して、驚愕し、嫌悪感を感じた。

消費者は、何時になったら、商品の価格に疑いを持ち、自分の舌を信じるのだろうか。

信じる根拠がまったくないのに「大手企業のバイヤー推薦」ならそれに対価を払う人がいる。

彼らが言う「有機」という言葉を信じて。

肩書きを信用するのは消費者の自由だ。
4000円のジャムを食べる自分に酔うのもいいだろう。

でも、「自分の金で買うのだから、文句ないだろう。」という思想が作る社会はどんな世界なのだろうか。

食べる時は無言、会話しながらなんて無理

旨い鍋を食べている時、みんな会話を忘れて無言になる。

「楽しく会話をしながら食べましょう」なんていう人がいるけれど、本当においしいものを食べている時、会話なんて無理。

食べることにだけ専念しているんだから。

以前、自宅に友人を呼んで食事会をした時もそうだった。

餃子を作って、テーブルに運ぶ。
キッチンに戻って、また作って運ぶ。

これを三回ほど往復した。テーブルに行くたび、餃子は消えて、誰も話をしていない。

ひたすら食べている。
まるで戦後の欠食児童のようだった。

その時、思った。

「みんな毎日、何食っているんだ?!」。

私にとって普通に美味しい食べ物も彼らにとっては「物凄く旨いもの」だったらしい。

その餃子への賞賛は、食べ終わってから、材料から調理方法まで根掘り葉掘り聞かれたことが証明している。

もちろん、皿は空っぽだ。

だいたい、餃子なんて100個作ったって500円もかからない。
味のバリエーションを変えてその倍作っても1000円でおつりが来る。

冷凍できるから、余っても問題なし。
チキンスープを作って冷凍餃子をいくつか落とせば夕食にもなるのだから。

大勢で食事をするのは、会話や親交だけが目的じゃあない。

まず、みんなで食べる喜びを感じる。
そして、食べた後の満足した顔は、作り手に達成感を与える。

役割分担なんてどうでもいい。
出来る人ができることをすればいい。

料理ができなければ、学べば良い。
それまでは、食器を洗えばいい。

作る側も食べる側も、お互い与え合うものがあるのだから。

「記念日に回転ずし」を食べる意味

WEBニュースはほとんどネタなので、あまり読まないようにしている。
でも、食いしん坊としては「それは論点が違うだろうっ」と思うものも少なくない。

タイトルの記事は、お悩み相談掲示板に上げられた「誰か」の悩みである。

「ボーナス後のクリスマスの記念日デート、回転寿司に連れて行かれた女性が、彼に不満を漏らすと「俺が奢るんだから文句あるか」と喧嘩になった。」とのこと。

記事は、彼女が「奢られること」を期待することが間違っている、彼のけち臭さを責められない、とかなんとか。

それはどうでもいいけど、そもそも、論点が違うだろう。

魚の新鮮な地域ならともかく、回転寿司は美味しいか?

「俺が払うから俺の食べたいものを食べるのだ。」という俺様主義だけでも十分幻滅させる男性だ。

それが効率と量を求める「回転寿司」をデート先に選んだ段階で、自身の男性を選ぶ目を疑う必要があったはず。

しかも、記念日デートに、だ。

その夜、ベットの中でタンゴを踊る時だって、きっと「効率と量」を求められたに違いない。

そんな男性と付き合う「自分自身」の未来を考えた方がいい。

人の行動は、思想の結果だ。
この味覚と食事に対する価値観を考えたら結婚生活だってイメージができそうなものだろう。

大体、食いたいものがあれば、自分の金で払って食べればいい。

一緒に食事をするというのは、一緒に時間を過ごすこと。
大切な記憶を作ること。

食事を「効率と量」と考える価値観に、思いやりとか愛情は期待できない。

そんな人間と一緒にいたいのなら、それは自身の選択。

そんな男に付き合う「彼女」の問題であって、彼の問題ではない。

2014年2月17日月曜日

誘惑の連鎖

仲の良い友人がハウスを引っ越すので、その前に夕食ということで鍋をすることになった。

鶏肉と豚肉が必要だったが、買いに行ったところがまずかった。
誘惑の巣窟、デパートの食品売り場だ。

肉だけを買いにいったはずだった。
ただ、春雨も必要だったから「ここで買い物を終わらせてしまおう。」と思った。

これが運のつきだ。

ここは、高級デパート。
当然、春雨が売っているコーナーは選りすぐった日用食材の宝庫だ。

そこで、地元企業が作っているチーズスプレットを見つけた。
ほとんどチーズとバターで出来ている本物だ。

生産量が少ないから、取り扱い店も少ない。

それが売っている。

たしか、春雨を買いに来たはずだが、いっしょにこれも買ってしまった。

すでに欲望は「ベーグル!」と叫んでいる。
隣のセクションはパン屋だ。

最後の1個のベーグルを見つけてレジに行こうとした時、向かいから来る人が、アーモンドクリームがかかっているクロワッサンをトレイに乗せていた。

コーティングクロワッサン、大好きだけど値段も安くないし、作っている店も少ないから、食べるチャンスはほとんどない。

それが、目の前を横切ってゆくのだから、欲望は暴走する。

また、周りをみれば、手に入れてたチーズスプレットに合うようなライ麦で作られたハードパンやドライフルーツを混ぜたフランスパンが並んでいる。

頭の中はすでに「スプレットに合うパンの味」をシュミレーションしている。

気がついたら、予定以外の買い物がとても多くなっていた。
もちろん、全部「美味しい食べ物」だ。

しかし、デパートにはどうしてあんなにたくさん、誘惑の罠が仕掛けられているのだろうか。

値段がつけられる「安全」と「安心」

すごくいやらしいラジオ広告がある。
それが、どうも「賞」を取ったらしい。

それは「おいしいは安全」という広告。

言いたいことは、地元の食品は「安全だからおいしい」という理論展開だ。

それも子供の声を使って「大人が子供に教える」ドラマ風に作られている。

この「おいしいものは、安全である」というイメージの押し売りに、強烈な嫌らしさを感じた。

一般的に、高価なものは美味しい。

CMは、この一般概念に「高価なら安全」という思考を普及させて「高価なものは、美味しくて安全だ」というイメージを作ろうとしている。

これは「安価なら、まずくて危険だ」という概念の普及ともいえるだろう。

そもそも、食べることはいつでもリスクがある。

それが安全かどうかなんて誰がわかるのだろう。

食べて死なないことを「安全」というのなら、近年の先進国で食されるほとんどの食べ物は安全だ。

安心や安全に値段をつけてしまうと、信頼関係も値段で決まることになる。

生産者と消費者、商品を介して「信頼関係」を作る。

でも、どこで買うかは「金を出す私の自由」という消費者、自分達が「食べる物」を作る人達に対して、所詮、値段とブランド(産地)でしか判断しない。

そうやってできるのが「信頼関係」だ。
当然、彼らの人間関係すべてに値札(肩書き)がついているのだから、食べ物がだけが特別ではない。

彼らは、安心や安全に「値段」を付けて、損得を決められることに「安心」する。

でも、まったく意味のない「安心」だけどね。

「リスク0」の食品を求める先にある社会

あるフランス人の幼児教育者と知り合った。
当然、英語学校で教えている人だ。

日本に住む西洋人、そうでない人の方が少ない。

フランス語も教えているらしい。
でも、キャリアは幼児教育者だから、私と話が合う。

自分自身の天職は教員だと思うけど、職場として組織的価値観で動く学校を選ばなかっただけだ。

ある夜、彼女と話す機会があった。
このように、新しい知り合いとは、向き合って話す。

1時間でいい。
その人に向き合って話せば、その人について知ることは多い。

同じ空間で話せば、その人が醸し出す雰囲気、話の内容に興奮して思わず出るゼスチャー、そしてなにより、真剣に教育の未来を語るときの情熱も共有するのだから。

そして、魅力的な人だと思った。

いろいろな話をしたが、ある話がとても興味深かった。

彼女がフランスでのキャリア時代の話だ。

保育園でケーキを焼いたら使った卵が汚染されていたらしく食中毒が発生した。

それで、保育園で卵を使うことが禁止された。

工場生産のパウダー卵なら、使ってもいいらしい。

彼女は「どんなものを食べてもリスクがあるんだから、禁止してどうなる訳じゃあない」と熱く語る。

もっもな話だ。

ただ、先進国の発想はどこも変わらない。

工場製品なら、安全である「神話」が普及すれば、大企業は儲かる。
政府は規制することで、訴えられるリスクを減らせる。

大企業にも政府にも、規制はメリットしかない。

で、誰がデメリット(悪影響)をかぶるのか。

それを求めた消費者だ。

「未来の大人」は、卵は工場のパックを開けると出ることを小さい時に学ぶ。

卵を割る力加減を体験するチャンスもない。

食べることは生きること。

100%の安全なんてありえない。

2014年2月16日日曜日

激安ステンレスボール

スーパーの帰り道、欲しいパネルヒーターの値段が調べたくて近所のホームセンターに寄った。

ここには用事が無くても値段調査のために立ち寄ることが多い。
品質は決して最上級ではないけれど、値段なりの製品がそろっている。

お目当ての商品、店には品揃えは少ない無い上、やはりWEB通販より6000円は高かった。

諦めて帰ろうとすると100円サインの付いたワゴンを見つけた。

その中にあるものがすごい。
ステンレスのキッチン用品ばかりある。

どうも在庫処分のようだ。

シンク内で使うステンレス水切りゴミ入れが100円。

以前から欲しかったから、速攻で買った。

次の日、そこで買ったシリコン製のアイスキャンデー型がもうひとつ欲しくてまた買いに行った。

そうしたら、今度はもっとすごかった。

22センチの洗米用ボール、18センチ、15センチのボールやパンチざる、スライド式水切り籠まで100円になっている。

食パンの焼き型も100円だ。

ほとんど全部買い占めた。

決断まで15秒。

レジの定員さんが商品と値段を見て目を丸くしていた。

私だって驚いた。

サンプルのシールが張ってあったからほとんど商品価値は無かったのだろう。
でも、製品の良さには変わりない。

だから、100円ショップの商品とは比べ物にならないほど、品質がいい。

以前、サーモスの保温鍋がやはり在庫処分で激安になっていたものを買ったことがある。

箱が汚いので誰も目に留めないが、この会社の製品の優秀さを知っている私は、即買いした。

これが実店舗で買い物をする醍醐味だ。
期末決算前には、こういうチャンスが一番多い。

もっとも、私は仲間内で「バーゲンを呼ぶ女」と呼ばれているけど・・・・。

至福の味、マンゴーとパッションフルーツ

ロシアンシュークリーム、その日のうちに一人で6種類、6個全部平らげた。

これだけ味が違うといろいろなことが判って面白い。

まず、酸味と甘み。
これ、やはり重要なコンビネーションだ。

今回のシュークリームでも、苦味(抹茶、コーヒー、チョコ)と甘みのコンビがあったけれど、やはり酸味と甘みの方が苦味のそれよりおいしく感じる。

思えば、酢豚の味もそうだ。

で、酸味にもヨーグルト的な酸味と柑橘系のそれがある。

シューのひとつは、ヨーグルトクリームが使われていた。
上にはラズベリーチョコがコーティングされている。

フルーツとヨーグルト、これも絶妙なおいしさだ。

で、なんといってもおいしさの雄叫びが出たのは、マンゴーとパッションフルーツのクリーム。

前回食べた時もそうだが、至福の味だ。

先日、某テレビ番組でパッションフルーツが使われているクリームがたっぷりかかっているパンケーキが紹介されていた。

芸能人が「うまいっ」と言って食べていたが、それは当然。
生クリームとパッションフルーツと交じり合う味は麻薬的だ。

それに加えてこれはマンゴーチョコのコーティングまでされている。

皮はやわらかい普通の食感だから、味のハーモニーに集中できる。

不思議なことに、6個食べても胸焼けが起きない。
表示をみれば、砂糖の量は生クリームより少ないとのこと。

風味を強烈に感じるのは、甘みが弱いせいなのか。

このシュークリーム、定番で店に並んでいなくて、本当に良かった。
だって、中毒性は半端ないよ、これ。

ロシアンシュークリーム

これ、ロシア風のシュークリームという意味ではない。
全部味が違うから食べると「何が当たるかわからない」という意味。

これ、いつものお菓子屋でやっている今月の「おやつ」だ。

地元還元、利益度外視のワンコインおやつ。
先月は、チョコレートケーキまるまる一個だった。

で、今月はシュークリーム。
6個のシュークリームが入っている。

これ、それぞれの上に違った味のチョコレートコーティングがしている。
同じように中のクリームも味が違う。

これをそれぞれ組み合わせて6種類、2つの味を組み合わせたおいしいシュークリームが詰まっているというわけ。

以前に食べた時、この組み合わせとバリエーションに身悶えた。
だから、今回の再登場を知った時、速攻で予約した。

夕食後にシュークリーム6個も食べるのは、ハッキリ言って自殺行為だ。
馬鹿としかいえない。

でも、時間が経つと味が落ちる。
それに、これだけは分け合うことができない。

だって、本当においしいんだもん。

抹茶味のチョコレートコーティングには小豆風味のクリーム、紅茶味のコーティングにはりんご風味のクリームと、6こそれぞれ異なる味。

どれも絶妙な味だ。
お気に入りは、パッションフルーツのクリームにマンゴーのチョココーティング。

気が遠くなるほどおいしい。

さすがに一度には無理だった。
3個づつ2回に分けて食べる。

こんな時、理性は寝たふりをしている。

だから、今日食べたシュークリームの記憶、舌だけしか覚えていない(はず。)

2014年2月14日金曜日

冷凍卵のゆで卵

タイトル通り。
意図的に作った訳ではないけれど。

休日の朝、目玉焼きを作ろうとして卵を出したらひびが入っていた。

最初に思ったのは「なんて、もったいない」だ。

卵を運ぶときは、いつも注意して買っているから、割れるはずはないとの自負があった。

がっかりした。

で、持ち上げたら重い。

「ん?」と良く見ると、凍っている。
吹き出し口の下に置いてあったたまご、どうも凍って割れたらしい。

ちょっとほっとした。
でも、もったいないことには変わりない。

で、考えた。

捨てるべきかなあ、食えないかなあ、と。

基本的に、割れた卵を食べるほど食の安全にうとい人間ではない。
でも、これは冷凍されている。
だから、ひび割れしてからずっと冷凍状態ということだ。

それなら、食っても大丈夫だろう。

そう考えて、ゆで卵にしてみた。
食って腹痛を起こすのも私だ。
卵で死ぬほど、健康には不自由していない。

茹でるとゆで卵らしいものが出来た。

皮をむいて齧っても匂いはない。

大丈夫そうだ。

白身を割って黄身を出す。

ほろほろと崩れるはずの黄身ではない。
これはゴムの塊。

突っついたって、何したって崩れる気配がない。

すりこ木で潰そうにも潰れない。

諦めて刻んだ。

白身を刻む、というのは何度も経験しているが、黄身を刻むのは初めてだ。

それで作った卵サラダ。
歯ごたえがある卵サラダだけど、どんな食い物もマヨネーズを使えば不味くなりようがない。

恐るべし、マヨネーズ・・。

(追記:食べても体に影響なし。大丈夫でした。でも、よい子は真似しないように。)

ブリあら、買いすぎた結果・・・

めちゃくちゃうまい大根、いろいろ料理があるけど、冬に食べるのはなんたってブリ大根で食べるのが一番旨い。

ブリアラで煮る大根。
大根1本を一度に料理する。

一回で大根半分は食べられる。

そんな、美味しい大根が冷蔵庫に残っていた。
だから、仕事の後にデパートにアラを買いに行った。

いつもは売っているアラが何処にも見当たらない。

もう売れ切れたのか?

最近は、アラの値引き時間を知っている人が多い。
だから、もう売り切れたのだろうか? 

で、ようやく見つけたのが「大根煮セット」。
アラと一緒に大根が2切れ入っている。

仕方なしに買った。
この後、回れ右して帰ればいいのに、別のデパートに足は向かった。
そうしたら、なんとブリの頭半分が100円になっている。

だからつい、カゴに入れてしまった。

その帰り道「多く買いすぎたブリのアラ」の言い訳を自分に言い聞かせていた。

「絶対、ブリが多い方が美味しい。」
「大根1本だから、ブリが多いって訳じゃあない。」

で、帰って作った。

ブリの量が多かったから、本当に旨かった。
多めに出来た煮汁は薄味で作る。
そして、乾麺を入れて汁を吸わせる。

それだけで一食ができる。

ブリの出汁を吸った乾麺は、本当に美味しい。

数日食い続けて、最後は飽きたけど、やっぱりまた作るだろうな。

種と格闘する 冬バージョン

味覚の秋に、ぶどうのフルーツソースを作ることに夢中になった。
だって、すごく美味しいんだもん。

ただ、種を取るのに物凄く時間が掛かった。

今回もまた、種を取ることに時間がかかる食材をジャムにすることになった。

それは、金柑。1キロ300円程度で売っていたから。

小さめだし、ちょっと茶色くなったものもある。
でも、お正月の味を思い出すと食べたくなった。

それに、先日買った雑誌に金柑のジャムの作り方が載っていた。

こんな時、理性は役に立たない。
で、スケジュールに余裕がないのに買ってしまった。

で、気がついた。

ぶどうよりはるかに手間がかかることを。

まず、へたを取る。
そして、全体に穴をあける。

これだけでうんざりした。

そして、砂糖水で煮る。

甘さを控えめにするため、砂糖の量はレシピより大分減らした。
半分を砂糖漬けで食べることにして、後半分をジャムにする。

べたつく金柑を切って中の種を取り出す。

これが大変だった。
ぶどうの生だったが、砂糖煮の金柑はべたつく。

かといって、生の時に種は実に引っ付いて取れないから、煮る前に取り出すことはできない。

レシピはそんな砂糖煮を「薄切りにしろ」という。

無理だ。
4つに分けるんだって大変なのに・・・・

で、よく読んだら「1、2分茹でてから」と書いてある。

10分、20分では無かった。

仕方ないから、適当に刻んで、フードプロセッサーで砕いた。
まあ、とろみもついたし「よし」としよう。

味はどうか。

やっぱり美味しい。
まあ、砂糖煮だって美味しいのだから、そこから作ったジャム、まずくなるはずがない。

でも、ちょっと甘みが足りないから少しだけ甘くした。

適当に作ってもおいしく食べられれば、結果オッケーよん。

柑橘類の皮っておいしいんだ

柑橘類が大好きだ。

グレープフルーツは毎日のようにスムージーに使うし、ゆずはもちろん、文旦や清美も毎年直販で買っている。

冬の楽しみはりんごと柑橘類だ。

1月2月になると、おいしい柑橘類が勢ぞろいする。
ただ、いつも皮を捨てることを残念に思っていた。

このすばらしい風味をなんとか使えないか。

そう思って、少し冷凍しておいた。
で、ある時、これらの皮でマーマレードを作った。

まだ、強い香りが残っている。
解凍するとふにゃふにゃになった。
刻んでみたけど、あまりうまく行かない。

だから、煮た後にハンドブレンダーでピューレ状にした。
いい具合にとろみがついた。

もちろん、砂糖を加えてジャムにする。
味見をすると、美味しかったあの味がよみがえるほど風味が強い。

ちょっと驚いた。これ、食べられる!

今まで、柑橘類の皮は「食べられない」と思っていた。
でも、その固定観念を捨てると「食べる」という選択肢も「あり」になる。

酢につければサワードリンクも作れるだろう。
農薬は気になるけれど、直販で買うならその点も考慮できる。

「お金払ったから無駄なく使う」ではない。

「生産者が作ったものを大切に使う」という気持ちだ。

生ごみを肥料にする生活をしていても十分じゃあない。

一番大切なのは「美味しいものを美味しく食べる」こと。

消費者が、生産者に安全な作物を作ることを求めるなら、私達、消費者はそれらを最大限に生かして食べる義務がある。

先進国のように、恵まれた人間だけが大量の食べ物を廃棄できる権利などないのだから。

エネルギーは世界を循環しているのだから。

2014年2月13日木曜日

掻き揚げってなんて難しい料理なんだろ

コロッケを作る機会があったので、ついでに蕎麦やうどんに入れるちょっと入れるような掻き揚げも作ることにした。

母が、よく麺類を作るので小さく作って冷凍しておけば、ちょっとした風味を足すことができる。

冷凍していた枝豆、これをたまねぎ混ぜれば結構おいしくなりそう。


ここまでは良かった。


でも、掻き揚げ、これほど難しいとは思わなかった。

まず、衣と野菜の比率。
そして、絡みやすい衣のとろみ、そして温度。
これ、全部てんぷらとは全く違う。

最初は、衣がほとんど絡まないほど水っぽかった。

油に入れたらたまねぎも枝豆もみんなばらばらになった。

あせった。

温度が高めだからみるみるうちに茶色くなる。

茶色いばらばらなものを取り出したけど「掻き揚げ」とは呼べない代物だ。
味は悪くない。
ただ、ばらばらになっているだけ。

残っている掻き揚げに小麦粉を振りかけてもう少しとろみをつけておく。

油に投入すると、今度は、固まりすぎた。

パンケーキにたまねぎが埋まっている。
しかも、ばらばらになることを恐れて入れすぎた。
全部くっついている。

まあ、後からはさみで切ればいいか。

「とりあえず、固まりでもいいから揚げなきゃ」と思いながら考えた。

お店屋さんで食べるてんぷらの盛り合わせに、これほどの技術が盛り込まれているなんて考えたことも無かった。

ビジネスなら、原価とランニングコストのことしか計算しない。
職人は人件費だ。

でも、本当にそれで計算できるものだろうか?

最近は、ロボットや自動化の仕組みもいろいろ考えられているらしいけど、本当に可能なのか疑問だ。

揚げ物が家庭料理から敬遠されるけど・・・

このブログを始めた頃、大量のジャガイモと格闘した。

そのじゃがいも、冷凍されて余っている。
なんとか食べる必要があるから、またコロッケを作ることにした。

前回作ったコロッケは爆発したが、今回は、ちゃんと油の中で泳がせた。
だから、大体うまくは作れたが、思ったように「かりっ」とならない。

これ、温度の問題だ。
温度が低くなるとどうしても「だれっ」として油臭くなってしまう。

この調整がやたら大変。
だって、指突っ込んで温度を確認する訳には行かないもん。

揚げ物をしない家が多いというが、当然だと思う。

揚げ物は難しい。

キッチンが汚れるのはもちろんだが、そんなことより、おいしく作るためには経験が必要だ。

自分で作るとなると、熱周りの良い鍋も必要だ。
それに、作る手順もや油の量も把握できていないといけない。

そんな基本を知らずに作って失敗すると、カロリーも多いし「買った方が安い。」ということになるのだろう。

たぶん、正しい。

でも、自分で揚げるといろいろなことが学べる。

コロッケの場合、小麦粉、卵、パン粉の順でつけるとおいしく揚がる。

昨年、この工程を小麦粉を混ぜた卵液を使い、ひとつ減らしてみた。
でも、やっぱりうまく行かなかった。

卵液は水を少し混ぜてざるで濾すととコロッケに絡まりやすいことも発見した。

難しいから失敗する。

でも、いいじゃあないか。
それもまた学習するチャンスだ。

そんなものを食べてくれる家族がいれば、愛情のありがたさだって再確認させてくれる。

こんな経験は、お金で買えないよ。

親子だ、やっぱり・・・・

母のお土産に、粕漬けの魚を買ってきた。
迎えに来てくれた母との会話で「大吟醸の粕漬け、買ってきたから今晩焼いて食べよう」というと「ええっ、粕漬けを焼くの?」という頓珍漢な返事になった。

もう一度説明すると「ええっ、魚も漬けるの?」と驚く。

「食べたことがない」という。

嘘だ。
絶対、覚えてないだけだ。

だって、温泉の朝ご飯の付け合せに良く出るもん。
ただ「切り身」としてしか食べないから覚えてないだけだろう。

そんな彼女の頭に浮かんだ「粕漬け」は「きゅうり」だった。
もしくは大根か。

それを「焼く」ということで驚いたようだ。

先日、私が「酢の物」という言葉で「モズク」しか浮かばなかったことを思い出して「親子だなあ」とつくづく思った。

お互い、安い食材しか頭に浮かばない・・・

かつて、うちに来る漬物は大抵、ゴミ箱行きだった。
大体、甘いものが好きで、ハンバーグやカレーライスのように濃い味の西洋メニューが好きな父親の好みに偏っていた家庭で、漬物の味は全く理解されなかった。

たまに出てくる漬物もビニールパックから出されるものだから、おいしい訳がない。

体験というのは恐ろしい。
旨いと思わなければ買わない。
だから、そんな調理方法があることも知らないで育ってしまう。

私はたまたま自家製のおいしい飯鮨や粕漬けを食べる機会があったから学ぶことができた。

母は今、味の違いを学び始めている。
彼女は食べることを楽しみ始めてずいぶん変わった。

食べることは、生きる価値観を決める。

少なくても、食いしん坊はそう信じている。

食べ方が判らない時

お土産にした酒かす漬けの鮭、店の前で買う商品を決めかねていると、年配のお客さんがわらわらと寄ってきてわれ先にと決めてゆく。

でも、私はまだ迷っていた。

いままで酒かすの切り身で旨いと思ったことはない。
大抵、しょっぱいから粕は洗い落とす。

でも、これは大吟醸だ。
だから、店員さんに聞いた。

「酒かすは焦げちゃうから洗い落とすべき?」

そうしたら「つけたまま弱火で焼いて下さい。そうしたら、焦げませんよ。粕もおいしいです。」と教えてくれた。

その通りに焼いたら、焼け過ぎず、でもちょっと焦げて、うまい按配で仕上がった。

酒かすの味は、鮭と混じるとなんとも言えない風味をかもし出す。

唸るしかない。

大吟醸の酒かすだからかもしれないが、甘みの強さが塩味を和らげる。
実際、塩気もそれほど強くない。

塩分を控えると腐りやすくなるけれど、腐る前に食えばいいだけの話だ。

以前に、「八つ頭(さといもの親芋)」を八百屋で初めて見た時、食べ方が判らなかった。

そうしたら、八百屋のおじさんが教えてくれた。

商品のおいしい食べ方は、売っている彼らが一番良く知っている。
本物を作っている人たちや、それを売っている人はみんな知っているのだ。

料理人の創造性を尊重するが、旨いものをおいしく食べる方法は、シンプルなのが一番。

焼くが煮るだ。

でも、この火加減や下ごしらえが結構微妙。
知っていると知らないでは大違いだ。

スーパーの魚が安いのは、生産者の知恵が値段に含まれていないからだろうね。

大吟醸の酒かすで漬けた鮭

実家にはしょっちゅう帰るが、母にお土産など買わない。
だって、甘いものが嫌いだから。

今回も、実家に戻るためのバスの時間までまだ間があったが、お土産など買う気はなかった。

でも、途中にデパートがあるから、自然と地下食品街を覗いてゆくことにした。

時間が余れば、たいていデパートの地下街に行く。
ただ、食いしん坊の本能がそうしているのかは判らない。

そこで地味な出店を見つけた。
エレベーターの傍にイベント的に展示されていた店。
飯鮨(いずし)を試食させている。

こりゃあ食べないでいられないでしょ。

飯鮨とは、ご飯と魚・野菜・麹を混ぜて乳酸発酵させる漬物の一種。
市販のもので旨いものを食ったことがない。
有名店であっても「この値段で二度と買うもんか」という味ばかりだ。

でも、この店、ちょっと違った。
添加物は一切なし、冷凍していない。

ショーケース2つにあった飯鮨の他に、私の目を引いたのは「大吟醸の粕漬け」だ。

鮭とタラがある。
一切れ300円。

でも、大吟醸の酒かすで漬けられた切り身だ。
こんなもん、ほとんど食べられない。

魚の味を試すためにも飯鮨の試食をさせてもらう。
これも、旨い。

やばい。
財布の紐が緩み始めた。

結局、切り身2つと飯鮨2種類を買う。
「母の土産に」と自分に言い訳したが、実際は自分が食いたくて買った。

これが絶品だった。
母が狂喜したことは言うまでもない。

有名でもない有限会社だけど、本物を作る会社だ。

食えば判る。

オートミールからグルノラを作る

グルノーラ、ミューゼル、なんでもいいけど、オートミールで作る朝食用シリアル、手作りすると甘みがコントロールできる。

加えて、自分の好きなナッツやドライフルーツを入れることができるので、時々作っている。

ある夜、ハウスの共通キッチンでこれを作った後、トレイに広げて冷ましていた。

それを見た、フランス人の住人が「何これ?」というから、グルノラと答えた。
そうしたら驚いて「作れるの?どうやって作るのか?」と聞くから、今度教えてやると約束した。

それが、今日だった。

作り方は簡単。
オートミール3カップ、ナッツ類1カップ半弱、ドライフルーツ2分の1カップ、に対してグレープシードオイル50ml、メープルシロップ60ml、を混ぜるだけ。

オートミールにナッツを混ぜる。
液体を混ぜて乳化させる。

この2つを混ぜて160度のオーブンで10分から15分焼く。

ドライフルーツを入れてさらに10分くらい。
トーストの度合いは好み。

重要なのは焦がさないこと。
フルーツ類は後から入れること。
でないと、乾燥しすぎて歯が立たないほど硬くなる。

まあ、そんなことを実演しながらおしゃべりする。

生クリームを使いすぎる日本のお菓子、フランスの素朴な家庭菓子の話など。

食べ物の話題は尽きない。
そのうち出来上がったので、部屋からミルクを取ってきて一緒に味見をする。

美味しかった。

彼女が自分で作るかどうかなんてどうでもいい。

自分で作れると知ること。
そして、それが美味しいと知ること。

知れば行動が変わる。
つまり、生活も変わるということ。

だから、自分で作ってみようよ。

2014年2月9日日曜日

池の鴨を見ると、思うこと

仕事に向かう道中、ある観光地の前を通る。

そこには、大きな池があり、オス、メスの鴨が何羽も、のんびり浮かんでいる。

それを見て観光客は「きゃあ、かわいい。」とか言っている。
でも、私はそうは思わない。


なんて、美味しそうなんだろう。


心から、そう思う。
だって、丸々太った鴨が群れになっている。

ご馳走が目の前にあるのに、食べないでどうする?

でも、採ったら犯罪だ。
だから、思うだけで我慢するけど。

鹿や鴨、フランスでは「ジビエ」と言われている。
時期もあると思うけど、野生の肉は硬くても本当に味や風味が強い。
そんな言葉も知らなかった時、そんな肉を食べた。

味の記憶は小学生時代までさかのぼる。

昔、猟師の父親を持った同級生がいた。
彼女のお父さんは、猟師の傍ら、ドライブインを経営して、そこでは彼が猟で採った動物達が焼肉になって提供されていた。

今でも覚えている味に熊がある。

臭い肉だった思い出しかないけれど、鹿は子供心においしいと思った。
鴨に代表される鳥がいたかどうかは覚えていない。

鴨は何度かフレンチレストランで食べたが、たいていは燻製だったような気がする。

ただ、毎回とても美味しかった。
そんな記憶が、池の鴨に対して「うまそう」と思う気持ちを呼び起こすのだろう。

鶴を見て「うまそう」とは決して思わない。
でも、丸々と太った鴨は食欲を刺激する。

たぶん、大昔の原人も同じような気持ちになったから、鴨に向けて矢を放ったのかもね。

風味を作るもの

今年の柚子、風味は弱いが汁は多かった。

昨年購入したものはは、風味は強いけど汁は少なかった。

何が違うか判らないけど、柚子サワーを作るには、後者の方が都合が良いみたいだ。

柚子には大きく2種類ある。
ひとつは、接木の柚子、そしてもうひとつが純正柚子。

風味は純正柚子が圧倒的に強い。
ただ、柚子は植えてから20年以上経たないと実がならない。

昔は「柚子植える馬鹿」と言われたそうだ。

純正柚子かどうか、なんて判るわけではないけれど、何年も購入していると、柚子の違いが判る。

特に地域に寄る味の違いは大きい。
だからこそ、産地にはこだわる。

価格もこだわるけど、これは経済的な理由からだ。

産地直送で買うなら、あまり味には違いがない。
重要なのはそれが「産地」のビジネスかどうか、ということ。

だって最近、大企業が節税して儲けた金でを農業に投資している。

つまり、食い物ビジネスは儲かるのだ。
かつてICチップを作っていたクリーンルームで、無菌野菜を作る「株式会社」も登場している。

大手企業は、収穫量を工場製品のように管理し、定期的に出荷、販売する仕組みを作り始めている。

だから、野菜の生産から加工まで大企業だけで賄えるようになってきた。

これだけじゃあない。

コンビニの親会社は大手商社だ。
そして、そこで売られているサンドイッチで使われるハムもまた、商社の子会社で作られている。

そして、その素になっている豚。
これもまた大手商社の子会社だ。

そして、豚が食べる飼料もまた商社が子会社に売っている。

現実的に大企業が「食」をコントロールしている。

だからこそ、消費者は食べることを誰かに任せず、材料を買うことで、生産者と信頼関係を作る必要があるのだ。

ゆずプロジェクト 2013年

(昨年の話。)

原料買い付けに失敗したゆずプロジェクト、決して良いスタートではないかった。

まず、実家に戻ると、某大手WEB通販で買った猛烈に不細工なゆずが到着していた。

このゆず、いつもの店より遥かに芳香は弱い。
かなり残念な思いでサワードリンクを造り始めた。

まずは洗浄だ。
そして、へたを取る。

これが、ぜんぜん取れない。
新鮮な柑橘類の証拠でもあるけど、作業はたいへんだ。

そして計量。保存ビンに入れる量を昨年は間違って途中であわてたけど、今年は大丈夫。

ゆずを半分に切って、保存ビンに絞り入れる。
すごいジューシーだ。
芳香は弱いけど、ジュースは昨年の倍近くある。

蜂蜜を入れてしばらく置く。
蜂蜜はビンからゆっくり落ちてゆくからビンを傾けて固定する。

その間にゆずジャムの準備だ。

半分に切るのはゆずサワーと同じ。
これを適当に絞った後、皮と実に分けてゆく。
中身は鍋に入れてひたひたの水で煮る。
そうすると種からペクチンが出て、とろとろになる。

それを笊で漉して残ったものを絞る。
実の入っていた袋は解けてほとんどなくなる。

皮は細かく刻んで湯がく。
鮮度がいいと苦味も少ないから、湯がく回数はその時に得た柚子の味を見ながら湯がく。

回数が多すぎると苦味が薄くなり、特徴が薄くなる。
味見しながら湯がくが、今回も1度で十分だった。

そして砂糖と混ぜて煮る。
出来上がったのはまあ美味しいといえるだろう。

旨いものを作る楽しみは、それを食べる人の喜びを知ること。
さあ、今年も待っている人にお歳暮代わりに送ろうっと。

伝わらない「情報」

感動したおにぎりを買った店の前を通ったら「テナント募集」のサインが張ってあった。

しばらく開いていなかったから「持つかな?」とは思っていた。

とても残念だ。
だって、本当に美味しいお米を出す店だったから。

ただ、兆しはあった。

それは、店のすべてが「判りにくい」ということ。
アルファベットを使っていたから、店の名前が判別できない。

ランチとバータイムがあったけど、何が売りかわからない。

「こだわりのご飯カフェ」らしいが、店のレイアウトは吉野家だ。

雰囲気もそう。
テレビがずっと付いている。

内装が白だから、物凄く寒く見えるが、入り口とカウンターの距離は、ラーメン屋のそれだ。

今更だけど、店のコンセプトやロゴを検討し、ビジュアル化できていたら消費者も利用しただろう。

路面店であるメリットを生かして商売するなら勝算もあった。
たとえば、「美味しいおにぎりとお弁当」というような判りやすさだ。

でも、オーナーにはこだわりがあった。
ただ、こだわりが消費者には判らなかった。

ニーズがあってビジネスが発生する。
そして、そのニーズは年々変わる。

でも、思想に基づいた情熱を持った人の価値観は、ニーズを生み出す。
そのためには、その価値観を「判りやすく伝える」必要がある。

恋人でも消費者でも相手に伝わらなければ何も生まれない。

デザインはこういう「判りやすさ」を提供するものだ。

この見えないデザイン力の統合は手で掴めるものではないので「無料」だと思っている。
でなければ「安価」なものと思っている。

まあ、それは失敗してから「そうじゃあない」って判るんだけどね。

2014年2月7日金曜日

「酢の物」という言葉から想像するもの

先日、一緒に食事をした友人から電話があった。

当然のように、彼女の「友人の店」の食事の話になった。

彼女曰く、後日友人から電話があって「あの刺身はね、普通においしい、んじゃあなくて、本当においしいんだから」と一言あったらしい。

そんなことを言い合える仲は、とてもほほえましい。

まあ、彼女の舌は営業の接待で鍛えられているから「最高に美味しい刺身」を「普通に美味しい」と言ってしまう気持ちも判らないではないけど。

で、料理について話していたとき「ほら、あの酢の物、あったでしょ?あれはママのサービスだったのよ。」と言われた。

覚えてない。

どの料理のことだろう。
酢の物なんて無かったはず。

記憶にない。

「ほら、あのふぐの皮で作ったやつ」という一言でようやく思い出した。

想像していた「酢の物」は「モズク」だったから。

だいたい、フグなんて食材は数えるほどしか食べたことがない。
だから、頭に浮かぶのは「モズク」だ。
時々「きゅうりとわかめ」になるかもしれないけど。

たしかに、コリコリして美味しい酢の物だった。

でも、私にとってあれば「酢の物」という単語を使って表現する料理ではない。

では何か?

判んない。

だって、高級食材で作る料理なんて食べないもん。
「コリコリしたあれ」が一番ぴったりしている。

美味しさは覚えている。
心地よい歯ごたえも覚えている。

でも、もう一度食べたいかと言われるとNOだろう。

フグは美味しいのだろうけど、私の舌に感動を与えない。

たぶん、食いしん坊は高級食材というものを理解できないのかもしれない。

旬に採れた八重山モズクの酢の物には感動できるんだけどね。

2014年2月6日木曜日

すべては自家製パンのために・・・・

歯医者に通っている。
1年かけて上あご全部インプラントで作る予定だ。

で、住まいから遠いところにある大学病院だ。
行くのに1時間以上かかる。

治療予約のあったある日、朝パンを焼いた。
家を出る予定の時間に近づいてもまだ焼きあがっていない。

ありえない。
時間の計算を1時間、間違った。

パン焼き器、唯一の難点は「出来上がり時に取り出す」必要があること。
余熱で焼きすぎると硬く不味くなる。
戻ってくるまで取り出さないと2時間は熱いままだ。

さあ、どうしようか。

こんな時、食いしん坊なら決断は早い。

予約をキャンセルする。

優先度はパンの方が高い。

この事実に悩むことは無い。

そうしたら、その次の予約もキャンセルする必要が出来た。
だから、また取り直してもらった。

全部変更だ。

病院にもいい迷惑だと思う。
彼らはキャンセルの理由、知らないけど。。。。

でも、どんだけ面倒があっても、パンを不味く食べるのは拒否する。

ただ、このおかげで、予定していた長距離バスの予約まで変更するはめになった。

予定を変えることはめったにしない。
何故なら、時間の無駄だから。

でも、おいしくパンを食べるための予定変更は必要だ。
だって、焼きたてのパンを食べる幸せに比べたら、大した手間じゃあない。

「食べるために生きる」という私のモットー。

すべての行動は「美味しく食べるたにどう生きる?」が基準にある。
ただ、私の場合、基準が食欲に左右されることが多いけど・・・・

自家製パンでサンドイッチ

焼きたての自家製パン、切り分けるのが大変だ。

機械から取り出してパンを取り出す。
ちょっと失敗してがっかりするときも、旨く焼きあがって嬉しい時も、やることは同じ。

端っこを切り落としてまずカリカリした部分を食べる。
部屋の中には、焼きたてのパンの匂いが充満している。
その中で食べる焼きたてのパン。

胃が幸せの雄叫びを上げる瞬間だ。

少し冷ましてから、切り分ける。で、一枚ずつ冷凍する。

これを毎朝、スムージーを飲んでから一枚食べる。

北海道産の小麦粉で作る自家製のパンを作り出してから、ほとんどパンは買わないけど、サンドイッチが食べたい時が問題。

だって、この焼きたてパンは薄く切れない。
パンスライサーは持っている。
あの、プラスチックの枠みたいなやつ、使ったけど駄目だった。

だって、パンが柔らかいんだから。

固めのパンを焼くべきか、悩んでいたある日、冷凍したパンを半分にしてスライスした。

あらっ、薄く切れる!

凍ったパンに自家製ジャムをはさんでランチ代わりに持ってゆく。
パン1枚分の量だ。

こりゃ、いいわ。
小腹が空いた時、便利だ。

グルノーラバーもいいけれど、これの方が簡単にバリエーションの違いを出せる。

自家製ジャムは3種類ほど冷蔵庫に常備している。
冷凍パンだから、具材が傷み易いものでも安心。

必要は発明の母とは、良く言ったもんだ。

ハワイのドーナツと酪農王国の生クリーム

「デパチカ」という単語があるほど、デパートの食品には美味しいものがそろっている。

だからこそ、用事がなければ行かないようにしているが、その誘惑は強烈で、その前を通る時はどうしても引き寄せられてしまう。

それだけでも吸引力は強烈なのに、デパートには「イベント」というものがある。

「期間限定」という名目で、欲望を煽り、理性を失わせる。

そんな悪魔的な場所の傍を毎日通る羽目になっている。

仕事の帰りは、三越デパート、学校に行くときは大丸デパート。

目を瞑って歩ければいいけど、それは無理な話だ。

ある日、授業が始まるまで40分あったから、時間つぶしに大丸に寄った。

そうしたら、ハワイの有名ドーナツ店が「期間限定」で出店している。
しかも、酪農王国が自慢する生クリームを使った「限定商品」だ。

2重の限定。

理性が消えて、欲望は煽られた。

一個200円以上。
カロリーは計り知れない。

列が出来ている。
もちろん、私も並んだ。

みんなは4つ以上買っている。
15分待って、1個しか買わなかった。

かろうじて残っていた理性が勝った。

そうやって食べたドーナツ。甘みを抑えた生クリームと、舌に触る細かい砂糖から感じる味わい。

1個しか買わなくて本当に良かった。
販売していた5種類すべて買っていたら、きっと全部食ってる。

貧乏で良かったと思うのはこういう時だ。

食べられること、買うことができることは素晴らしい。
ただ、定職があり、金が自由に使えるなら欲望のままに消費する。

煽られているのにも気がつかずに。

でも、その欲望に任せた行動の結果、健康を損なうのは自分の責任だ。

2014年2月5日水曜日

ドリトス エビマヨネーズ味、期間限定

ポテトチップスが大好きだ。

カロリーがどれほど高いことを知っていても、その誘惑は強力だ。

コーンチップの誘惑は、ポテトチップより強い。

メキシカンレストランでサルサやワカモリと一緒に食べるコーンチップ、なんぼでも食べられる。

でも、滅多にメキシコレストランなんて行かないから、このコーンチップへの情熱は、コンビニなどのスナックに向けられる。

それでも、理性が効く時はまだいい。
大体、ポテトチップスもカロリーが多いが、ドリトスなどに代表されるような、チーズ味のコーンチップはそれを上回る。

この事実を知っているから、大抵の誘惑は理性が防御してくれる。

でも、今回は負けた。

タイトルの製品、理性を蹴散らす要素が満載だ。

コーンチップ、エビ、マヨネーズ、期間限定。
丁寧にも「2度がけ濃厚」とある。

あっ、と思った時にはすでに手にとっていた。

ジムで運動した後だったので、理性は必死に引き止めたが、このコンビネーションの誘惑に屈するには3秒しかかからなかった。

これを食後に食べる。
不味いはずがない。

内容を見ると、マヨネーズパウダーだけでは飽き足らず、バターミルクエキスパウダーが使われている。

これらが「2度がけ」されて味や風味、そしてカロリーを増幅している。

そんなカロリー、食べる前には「絶対に」確認しない。

見るのは、全部食べ終わった後だ。

今回の表示は396kcal。
今日7キロ歩いてラーメン一杯分約400kcalが消費できなかった。

つまり、7キロ歩いた運動は3分で胃に消えたチップスを食べたことで「無かったこと」になった。

筋肉を鍛える方法は知っている。
でも、理性はどうやって鍛えたらいいのだろうか。

2014年2月4日火曜日

流行を作って、企業は消費を煽るけど・・・

テレビが無い生活が長かった。
でも、ハウスには部屋に備え付けられている。

ある日、年代別の男性芸能人がそれぞれの時代に流行った「スイーツ」を試食する番組を見た。

これを見ながら、情けなくなった。

これが流行、と電波を通して人々の欲望を煽る。
そして「流行のものを食べる」ために、時間や金を使う。

「自分の時間や金をどう使おうと文句あるか」ということだろう。

「日本発上陸」、「健康になる素材がたくさん」、「モデルさんも絶賛」など売り方は様々だ。

中でも、パッションフルーツのソースをかけたパンケーキ、商品名にわざわざハワイ語を使っていた。

これが「時計草」と名の日本名では流行にはならない。

こうやって、芸能人を使って、公共電波を使って、食の流行を仕掛けるのは商社や大企業だ。

彼らは、生産者のことなど全く考えていない。

かつて、ナタデココが流行した時何が起こったか。

流行に乗って売るために、アジアでは商社が札束で買い占めた。
だから、地元では「ナタデココ御殿」が建つ。

それを見て、ナタデココを作り始める地元の人達。

森が切り崩され、畑にするころには、日本のナタデココブームは終わっていた。

残されたのは、開発されしまった森と借金を背負ったアジア人だ。

流行の食べ物を絶賛する芸能人も、それに乗せられて消費する消費者も同罪だ。

キリスト経の7つの大罪に「飽食」があるが、その意味を心から理解できる。

食べ残されて捨てられる大量の食べ物がどんどん増えるのに、餓死する人がいる社会。

でも、「美味しい流行」はビックビジネスになる。
時間や金をふんだんに持ち、考えもせず流行に流される消費者を大企業は求めている。

そんな食べ物と食べるとき、流行を追うということの「罪」の大きさを、ちょっとだけでいいから、考えてみようよ。

惣菜サラダと格闘する

朝食啓発プロジェクトのために、サンドイッチの中身を作った。

卵サラダは簡単だった。
茹でて潰して、マヨネーズを混ぜるだけ。

茹で上がって水で冷やした卵が入った鍋を管理人が見ている。

だから「次、どうすると思う?」と聞くと「剥くんですか?」と質問される。

だから「判っているなら、お願い」と頼むと、彼はひたすら夢中で剥き始める。

料理に関して、彼の頭がどうなっているか想像するのは難しい。

料理経験の無い人だから、段取りのイメージもつかないのだろう。
でも、彼の人間性は「善」であることは間違いない。

ただ、疑り深い。

ジャガイモを「茹でない」で作る私の言葉を最後まで疑っていた。

「これ食ったら、もうポテトサラダを作る時に二度と皮剥いて茹でないよ」と何度も説明する。

それでも信用しない。

だから、出来上がってから食わせた。

一発で理解した。

もともと、話が合うのは、彼と食いしん坊だからだ。
舌の性能は悪くない。

出来立ての熱々のポテトサラダ。
まあ、言葉は不要だ。

夕食を食べた後なのに、準備した朝食用のパンを一枚失敬してトーストしている。

「これ、本当においしいですねえ」という言葉、何度繰り返されたか。

朝食用、陽気な住人用、そして管理人用に分けた。
少し余ったから自分用にも分けた。

次の朝、眠い目を漉すって朝食担当の応援に行く。

カウンターの下にポテトサラダが余ってるのは、彼女の分だろう。

朝食を食べてる住人もサラダが旨いと喜んでいる。

美味しいものを一人で食べてもいい。

でも、みんなで分け合えば、もっといろんなものが生まれる可能性がある。

それが、食べ物の力だ。

朝ごはんを食べよう

ハウスの中で朝ごはんを提供することになった。

目的は、健康的な生活を啓発すること。
そしてお互いを知り合う機会提供のためだ。

初回はサンドイッチを作ることに決まった。
朝、作って包装する担当と、夜のうちに具材を作る担当に分かれた。

私と管理人は夜担当。
朝なんて、絶対無理。
とても起きれない。

で、鍋会の後、二人で2種類のサラダを作り始めた。

卵サラダとポテトサラダだ。

しいたけの出汁を捨てようとした管理人だ。
とても不安だけど、やるしかない。

彼の買ってきた卵をチェックすると一個割れている。

乱暴に扱うからだ。

ため息をつきながらそれを避けて茹で始めた。
でも、だんだん白くなるから「?」と思った。
見れば、もうひとつ割れているじゃあないか。

もう、いい。そのまま茹でよう。

その間、彼はお湯でジャガイモを洗っていた。

だから、ジャガイモの洗い方から指導した。

水で洗う理由、洗う時の道具、持ち方、力の入れ具合、洗浄の程度など。
それが終わると、芽の取り方、傷んだ部分の削り方を実践して見せた。

それを見ていた陽気な住人が「自分も手伝う」と言う。

協力、大歓迎だ。

じゃがいもの残りがあるというから「それ、持っきて。手伝ってくれたら、提供したジャガイモ分のポテトサラダ、持って行っていいよ。」と話す。

彼は、速攻で部屋から取ってきたやつを洗い始めた。

料理も、労力も、知識も分け合えばいい。

そうやって、食べることに協力できる仲間の間には、信頼の種が撒かれるのだから。

レシピ通りでは無いけれど、大丈夫!

ハウスで作ったピエンローという鍋、料理が得意な食いしん坊な爽やか青年に任せた。

私は、もうひとつの鍋を作る必要がある。

このピエンローという肉の鍋、白菜一個まるごと使う。

白菜は既に洗って刻んである。

肉とこれを鍋にぶち込むだけだから、迷いようがない。
でも、呼ばれる。

「これ、入れちゃっていいですか?」
頼むから、本読んでくれ、と心で思っている私もまだ読んでない。

「入れちゃっていいよ。」と言ってから、読み直す。

「肉をいれてから、半分残した白菜で蓋をするように置く」と書いてある。

もう、全部いれちゃったよ。

あわてて、まだお湯に浸かっていない部分を鍋から取り出し、分けておく。

「大丈夫ですかねえ?」爽やか青年が心配そうに鍋を覗き込む。

大丈夫、腹に入れば大した違いはない。

肉を入れてから「なんとなく蓋にした気分」程度に白菜を乗せておく。

本は春雨をいれると書いてあるが、腹が減っている連中にはそんなもんでは足りない。

だから、うどんを入れる。

「今、入れちゃっていいですかねえ?どろどろになりませんかねえ?」

いけいけ、どんどんいけっ。
そんなになる前に無くなるから安心しろっ。

味付けは彼に任せた。

爽やか青年が「塩だけ」と書いてレシピを見て「ええっ、塩だけで大丈夫ですか?」と疑う。

danchyuのレシピを疑うとは大胆な。

そうだ、ごま油を買ってなかった。
爽やか青年「ぼく、あります」と寄付してくれた。

本当に素敵な若者だ。

テーブルにおいて10分、うどんは数本を数えるだけとなった。

鍋を引き上げてもう一度うどんを入れて作り直す。

鍋を食べながら、爽やか青年は言う。

「塩だけでいいんですね。」

素材がウマけれりゃ、大企業の「XXの素」とか「インスタントかつおだし」なんて要らないのよん。

しいたけの浸した出汁は使うもんなの!

また、ハウスの鍋パーティだ。

dancyuという雑誌から出ている「日本一のレシピ」にあったピエンローを作りたくて、管理人に材料を買ってきてもらった。

肉と白菜の鍋だ。

そのために、自分が持っていた干ししいたけを寄付して出汁を作っておいた。
それを鍋にあけると、しいたけが浮いている。

一緒に作業していた管理人に「しいたけをボールに入れて頂戴。」とお願いした。

そして、鍋の中を覗いた管理人。
彼の発した言葉に驚愕した。


「判りました。じゃあ、この(浸かっていた)水は捨てますか?」


彼は本気だった。
ボケをかましているのではない。

まあ、誰だって物事を知る「最初」がある。

料理が生活の一部なら当たり前のことでも、そうでない人には違う。
彼の言葉は、そんな事実を「再認識」させてくれた。

しいたけを浸して出汁を取ることは「知らない人」にとって「あたりまえ」のことではないのだ。

だからこそ、子供や夫に対して「こんなことも判らないの?」と言葉にする前に、考えて欲しい。

彼らが「知らない」という事実を。

そして、そんなことを学ぶチャンスを「簡単に食べ物が手にはいるコンビニ生活」で失っていることを。

でも、知らない人には、「知っている人」が教えてあげればいい。
それが、「知っている人」の責務だ。

彼らの無知を非難し、見下すことではない。

いっしょに食事をするのは、美味しく食べるだけではない。
分け合うのは、食事だけではなく、知恵や工夫も分け合うのだから。

危うく廃棄されそうになったしいたけの出し汁で作ったピエンロー。
劇ウマだった。

dancyuのレシピに外れはない。

鍋の材料、売ってないっ!

ハウスの鍋会、みんなの分をつくるためにも、大体大なべ2つ、2種類作る。

今回は、肉と魚。

肉は管理人が調達した。
魚は、私が仕事の帰りに買うことになった。

タラがシーズンだ。
だから、タラでも買おうかと考えていた。

デパートに着いたのは、夕方4時。
まだ、値引きの時間じゃあない。

でも、アラなんて大した金額じゃあないし、と思いながら鮮魚コーナーに行った。

アラがほとんどない。

そもそも、タラがない。

ようやく見つけたパックに入った切り身。
お値段は2切れ800円。

貧乏鍋の材料には成り得ない。

生のサーモントラウトのアラがあった。
これで、いい。
シャケ鍋だ。

厳密には「マス」らしいけど。

ふと、豆腐なんかは買っているだろうか、と思いながら、まだタラに未練があった。

だから、三越デパートにも寄ったが、やっぱり劇高のタラの切り身しか置いていない。

ブリのカマやアラはたくさん売っているのに、地元の、しかも旬の魚がないのは、何か理由があるんだろうか。

とりあえずシャケがあるから、これに合う鍋野菜を考える必要がある。

春菊と大根、もやし、私が寄付する長ネギ。
こんなもんでいいか。

鍋は作るのは簡単だけど、材料の調達が本当に大変。
でも、安い材料でも、美味しく食べる方法はいくらでもある。

みんなで食べれば、もっと美味しい。

空っぽの鍋が私に与える達成感と幸福感は、値段をつけられるもんじゃあない。

独りで高価な食事を食べる人は、20年後もきっと独りで食べているだろう。

その時の料理の味は、値段に見合った「美味しいもの」だろうか?

2014年2月3日月曜日

「醍醐」という名前を持つお菓子に入っているもの

いつも行くお菓子屋には、ある時期からチーズスフレが定番商品として登場した。

もう15年近く前だろうか。

地元の友人が上京した時、わざわざ買ってきてくれた。

当時の新商品だった。

商品名は「醍醐」。
意味は、簡単に言うと「めちゃくちゃ旨い」ということ。

で、初めて食べた。
ちょっと潰れたチーズスフレ、名前の通り、めちゃくちゃ旨かった。

本来の「醍醐」はクリームみたいなものらしい。
もちろん、このチーズスフレも生クリームやクリームチーズで出来ている。

ただ、これだけでは特徴が出ない。
だから、パッションフルーツビューレが入っている。

この酸味と風味がものすごいインパクトを与える。
同じ酸味のあるフルーツでも、これがイチゴでは平凡な味になるだろう。

ただの「イチゴクリームスフレ」が「醍醐」なんて商品名なら名前負けしてしまう。

パッションフルーツ、当時も今も、安い食材じゃあない。
でも、独特の酸味と風味はお菓子の個性を引き立て、商品をただの「スフレ」から「醍醐」に変えている。

もちろん、この味が歴史で言われる「醍醐」の味であるという訳ではない。
でも、それほど「美味しい」と言われる味に近いはずだ。

オリジナルの意味はミルクからできる「美味しいもの」だけど、このお菓子はフルーツの力を借りている。

つまり、この味は「動物」と「植物」が作ったものをバランスよく協力して作られたもの。


美味しさに必要な「バランス感覚」と「協力関係」。


これって、生産(製造)者と消費者にも同じことがいえるような気がする。

美味しいものを作る人達

日ごろ、人より美味しいものは食べていると思うけど、高い食材は論外だ。

自炊となると、どうしても野菜と鶏肉がメインになる。

魚はアラがメインになるし、外食もほとんどしない。
だから、本物の「料理」を食べる機会はほとんどない。

だからこそ、友人の「友人の店」で食べた料理、本当に感動した。
内陸育ちの私には、トロの味など舌に刻まれるほどの衝撃だった。

同時に、こんなすごい食材を選んで調理する板前さんに頭が下がる。

と同時に尊敬の念が湧き上がる。

この店の食事が高いか安いかを語るのは意味がない。
こういう料理には金を払う価値がある。

消費者は、食材だけの値段で料理を考えるが、それは間違っている。

彼らの素晴らしい職人技とそのプロの目があるから、感動できるほどの料理が食べられる。

彼らがその能力を身に着けるまでどれだけ努力してきたか、ちょっと考えて欲しい。

年収のことばかりを考え、大企業に勤め、責任逃れをして、損得ばかりを考えるサラリーマンとは異次元に住んでいる「美味しいものを作る」職人さん達。

あまり話さないし、目立たない。

けれど、彼らの料理は「食べる」行為を「食を満たす」以上のものにしてくれる。

大企業の広告に踊らされ、大量生産の「食品」に飼いならされた消費者はこの「食べ物(料理)」の「違い」を理解しない。

だって、美味しさすら、値札でしか判断できないのだから。

プロフェッショナルが作る「食事」を、損得や節約で語るもんじゃあない。
彼らにとっても失礼だ。

彼らの料理は、大企業が作るそれとは訳が違う。

食いしん坊が美味しいものを食べる時、いつもこう思う。

極上トロが舌に与えた刺激

食いしん坊には、舌が決して忘れない極上の味の思い出がいくつかある。

そのひとつは、昔、東京は広尾にあるフレンチレストラン「ひらまつ」で行われたいとこの結婚式の食事だ。

そこに出たフォアグラの一皿。

フランスから空輸されたフォアグラだった。
一口食べた時に「これはやばい」と思うほど、麻薬的だった。

あの味と衝撃は、この舌が一生忘れないだろう。

もっとも、一皿の値段を知った時、二度と食べることはないと確信したけれど。

友人の知り合いの店で食事をした時、久々にそんな感動を味わった。

それは刺身の盛り合わせにあったトロの切り身。

もう、これはデパートで「トロ」とか「大トロ」と表示されているものと別物だ。

口に入れた瞬間、トロの味わいが舌にまとわりついた。

決して脂身だけの旨さではない。
もちろん、脂身の影響か過大だけれど、何よりマグロの旨さが口内に広がった。

感動なんてもんじゃあない。
衝撃に近かった。

友人に「すごいよ、これ。」と絶賛して、食べてもらう。

彼女は「うん、おいしいね。」だって。

信じられない。
これを「おいしい」とだけしか表現できないなんて。

続いた言葉に驚愕した。

「このくらいは、普通じゃないの?」

彼女の家族はみんな食いしん坊だ。
しかも、海辺の町育ち。
これほど美味しい刺身も「日常的」なのかも知れない。

彼女、いったい、どれだけ旨いもの、毎日食べているんだ?

縞アジって、ブリじゃあないのね

友人の「知り合いの店」で感動的な食事をした。

ひとつひとつがとても丁寧に作られいるだけではなく、食材の選び方にもプロの目を感じた。

刺身の盛り合わせにあった魚、5種類位あっだだろうか。
トロと思われる刺身の横にあった分厚い切り身を食べた時、ブリだと思った。

だって、見かけはどう見てもブリにしか見えなかったんだもん。

友人は「ブリとは違うでしょ、だってあまり脂っこくないよ。」という。

板前さんに聞くと「縞アジ」というではないか。
だから、聞きなおした。「アジですか?」と。

「ブリじゃあないんですか?」と2回聞きなおした。

私の厚顔無恥は、今始まったことではない。

たぶん板前さんも呆れていただろう。

でも、信じられなかった。

板前さんの言葉を疑う気持ちなど全く無い。
ただ、こんな美味しい「アジ」なんて食べたことない。

もっとも、小鯵以外のアジが刺身で存在するなんて完全に「想定外」だ。

酒も飲まず、大した量の料理も頼まず、大学生の居酒屋宴会並みの金額しか払えず、長居して、それを割り勘にした私達。

お互い、経歴が邪魔して仕事が見つからないから、とっても貧乏だ。
だから、疫病神みたいな客ではあるけれど、ママは快く送り出してくれた。

聞けば30年来の友人付き合いらしい。
これこそ本物の友情だ。

で、調べた。

でっかいアジ、「幻の魚」といわれているらしい。
まあ、旨かったけど、次食べて判るか、というと疑問だ。

だって、食いしん坊だけど、この舌は高級食材にはめっぽう弱い。

安い食材の違いなら、すぐ判るんだけどね。

プロの料理人はあちこちに居る

友人と食事をした。
彼女は、かつて営業本部長だった。
その彼女の「友人の店」で会うことになった。

だいたい、老舗のお菓子屋の娘だから、味には敏感だ。
加えて、社員時代に予算を使いたいだけ使ってうまいものを食べ続けた友人の舌は、半端じゃあない。

店に着いたらまだ友人は来ていなかった。
場所こそ雑居ビルの中だったけれど、入るのが躊躇うほど格式が高そうな和食の店だった。

平日だけど割りと混んでいるということでカウンターの板さんの前で食べることになった。

まず突き出しが凄かった。

酒の飲めない私の入れ歯を歯軋りさせるほど「酒の肴」には最高の料理が3品並んでいた。

まずは塩辛。

人生においてこれを特に美味しいと思ったことが無かった。
しかし、これは「本当に美味しい塩辛」を食べたことが無かったからだと確信した。

また、うっすらとピンク色の豆腐。

春のイメージだ。味わうと桜の味だ。
桜の葉っぱでだしを取ったそうな。

これは、すでに「料理」の域を超えている。
材料があるからと言って、作れるようなものじゃあない。

そして、おくらの胡麻和え。
これまた、素晴らしい一品。

ほんの少しであっても、本物の味だ。

その後、食べたものは刺身の盛りあわせ、はも焼き、そしておにぎりのお茶漬け。

量的には少ないけど、すべての料理に感動した。

だから、友人が突き出しを残そうとしたから、つい感情が出た。

それは「作り手に対してとても失礼なことだっ」と、彼女が年上であることも忘れて説教じみた言葉が出た。

だって、本当にそう思う。

本物の料理人は有名である必要はない。
料理を食べれば判ること。

料理の値段は食材の値段ではなく、彼らのプロの技に払うべきだ。

2014年2月1日土曜日

おいしさと優しさ

シェアハウスでいろいろ企画するためのミーティングを管理人の自宅でやることになった。

そうしたら、夕食が用意されていた。

驚いた。
全く予期していなかった。

みんなで美味しい出前のお寿司をご馳走になった。
生後4ヶ月の赤ちゃんは見学だけだけど。

その後に出てきたケーキ。私が最初に選んでいいとのことだったので、遠慮なく選ばせてもらった。

チョコとレアチーズ、キャラメルはすぐ見て判ったが、ひとつだけどうしても判らなかった。

だから、それを選ばせてもらった。

もっとも、管理人のお嫁さん、味のセンスが良い人なんで、どのケーキも美味しいはずだ。

ただ、これは当たりだった。
絶品だった。

抹茶のスポンジにラズベリーソースがサンドされている。

それをマスカルポーネチーズベースと思われるクリームが覆っている。
酸味が甘みを抑えることでクリームの味が引き立てられている。

管理人は「甘すぎる」と言ってキャラメルケーキを食べ残した。
あまりに勿体ないのでそれも頂いた。

たしかに甘いが、ナッツの香ばしさが甘みを中和させている。
ただ、キャラメルだから甘さからは逃れられない。

宝石箱のようなケーキの話を熱く語ることが今日の話のメインではない。

管理人夫婦が私の協力に感謝してくれたことを、夕食という形で表してくれたことに感動した。

食事は、一緒に食べることで、いろいろなこと教えてくれる。

作る人へ、そして食事を与えられ人へ、そして一緒に過ごせる相手に、その時間に、感謝する気持ちが沸く。

食べることで生まれる信頼関係こそ、栄養以上に生きてゆく力になるはずだ。

おいしい材料でつくれば旨いものにしかならない

おからと自家製グルノラ(朝食用シリアル)からエナジーバーを作った。
正確には「作ろうとした」だ。

が、固まり具合が甘くて、ばらばらな部分が沢山できた。

ため息をつきながら、ぼろぼろになった破片をかき集めて容器に入れる。

これは見事にトーストされたおからとオートミールが卵と豆乳で混ぜられたものだ。

形状上、完全なナッツ程度の大きさの破片だから、何かに混ぜるか、このまま食べるかだ。

ん?このまま食べる?

もともとシリアルであることに気が付いた。

「じゃあ、シリアルとしてたべりゃあいいじゃん」と気が付いた。

ばらばらの部分を器に入れる。
それに、春に友人からもらって作り続けているカスピ海ヨーグルトで和える。

うまいっ。
めちゃくちゃうまい。

大体、まずくなるはずが無い。
おからだって、地元のこだわり豆腐屋のものなんだから。

そして、このおからのトースト具合がとてもいい。

そうか、おからを乾かすのはオーブンで乾かせばいいんだ。

そうすると、ほとんどパン粉だ。

グルテンアレルギーの友人に対して、最強の食材になれる。

これなら、彼女が食べたがっていたトンカツができるかも知れない。
実験する価値はあるだろう。

結局のところ、うまいものはどうやったって旨くしかならないのだから。

冬の夏野菜

この夏に育てたトマトから作ったトマトソースから作る、野菜のトマトソース煮(ラタトゥユ)が半端なく旨い。

夏野菜を今の時期に買うのはなすやトマトを買うなんて馬鹿げてる。

栄養価は低いし、冬の夏野菜は値段も高い。

財布だって優しくないし、温室栽培だろうから、光熱費も掛かる。

地球にも優しくない。

だから、買わない。

でも、これらの冬野菜を夏の食材で食べるのは矛盾しているだろうか。

そんなことは無い。
だって、夏のトマトなんだから。

夏の元気なトマトと冬の温室育ちのトマトでは、エネルギー量が違う。

干したり、瓶詰めにしたりするのは旬の野菜の力を、食べ物に留めるため。
素晴らしい先人の知恵だ。

だから、夏と冬の旬野菜で作る料理は、まずくなりようがない。
必要なのは塩と少しの砂糖だけ。

そうやって保存食は長い間かけて、洗練されてきた。

簡単に生野菜が何時でも手に入る現代、そんな保存食の本当の価値を考えたことがあるだろうか。

材料の値段の安いときに作るから安い。
それは事実だろう。
でも、それ以上に旬素材が持つ力は金額では計れない。

冬に温室で作られた夏野菜を「買う」ということは、素材の価値を全く考えていない。

味が薄いから、化学調味料で整え、結局味は濃くなることになってしまう。

大体、夏野菜を冬に買うなんて馬鹿なこと、消費者が止めればいいのに。

大金出して買う人間がいるから企業は売り続けるのだ。

金を払えばなんでも買える社会だけど、味覚に関して言えば、人類は確実に退化しているとしか思えない。