2013年9月22日日曜日

「機能的」であることが野菜の付加価値?

食べ物は、美味しいから食べるのだ。

その美味しさを追い求めると野菜なら「とりたて」ということになる。
そして、食べ物は「旬」以外で食べると不味い事実に気がつく。

そして、高い金を出して「旬以外」の野菜や果物を買わなくなる。
だって、馬鹿らしいもん。

でも、食べ物を「有名店」とか「ブランド」という「脳」で買う人達は、「機能的野菜」も歓迎ということなのだろう。

「権威」が「これが必要な野菜量です」と発表する。日本人は「権威」の言うことは疑わない。だから、その数字が間違っていても「正」となる。

そもそも、「権威」が決めた量を食べるために、2倍の値段で高額な野菜を買うこと自体に「疑問」は持たないのか?

あのアイドルが「美味しい」と言ったから、権威者が保障した「機能強化野菜」だから、と言って食べるのでは自身が持つ「舌」の能力は不要だ。

食べ物を味わうのに必要なのは「脳」じゃない。

必要なのは「舌」であり、感動する「心」とその生産者への「敬意」だ。

だから、このような食べ物は食いしん坊に理解できない。

食べ物について言えば付加価値は「美味しい」と「信頼」以外ない。

「信頼」できる食べ物が懸命な生産者から提供されることに消費者は「敬意」を持つ。
そうすれば、おのずからその貴重な食べ物を無駄にすることなんて出来やしない。

信じるのは、自分の「舌」であり、「感動」だ。
ブランドや値段なんて、意味がない。

大企業を信頼するのは消費者の自由だ。

でも、裏切られても騒いでも、食ってしまったものは手遅れだ。
大企業という「ブランド」を信じた自分自身のせいだ。

「舌」と本能で、判断するなら、決して間違わないのに。

機能性野菜?!

テレビ番組を見ていると驚く話をしている。

まず、紹介されているブロッコリーの値段が普通の2倍だ。
でも、野菜の特定成分が普通のブロッコリーの3倍らしい。

消費者が「高くても体に良いものが欲しい」と話している。

恐ろしい・・・・

また、透析患者のように野菜の摂取量を制限されている人に対して低カリウムのレタスを作って販売しているそうだ。

このような機能性野菜が登場してくるのは「野菜の摂取量が目標より取れないから」だそう。

これら機能性野菜も有機野菜のようにブランド化して大企業が売り出すそうだ。

このようなものを求める消費者の気持ちが理解できない。

かつて、失業中に農家の手伝いをしていた。

大家の老人二人でやっていた小規模農家だったのだが、収穫の手伝いを半日位していただろうか。

お金を貰わなかったら、帰りに収穫した野菜を持たせてくれた。

その中でもブロッコリーの味は特別だった。

蒸したブロッコリーに塩を振るだけで濃い味が口いっぱい広がる。
マヨネーズの味は余計だった。

その夏いっぱい、彼らの野菜のうまさに慣れていた体は、秋になりスーパーのブロッコリーを同じ感覚で食べた。

吐き出した。
あまりに不味かったからだ。

ブロッコリーだけではない。
美味しいものは工場では作られない。

機能野菜を食べても人間は元気にならない。

「美味しいね」と言い合える仲間と、新鮮な野菜。

感謝して食べることで人は幸せになる。

2013年9月14日土曜日

なだ万監修の「カップラーメン」って

今日、イオンに行ってすごいものを見てしまった。

ビールの景品にカップラーメンがついていた。

しかも、「なだ万監修」って文字が堂々入っているところをみるとこの「ブランド」が売りなのだろう。

ちなみに、なだ万とは江戸時代から続く老舗日本料理店だ。

最近は駅ビル内でもその惣菜や弁当を買うことができるが、値段もさることながら、味も上品で味わいがある。

かつて、ある集会が「お弁当付」というのでいそいそ行った。
なんと、なだ万のお弁当だった。

テンション上がって今か今かと待っていたら、私の数人前で無くなった。
どうも、来場者が予定より多かったらしい。

ちなみに私はちゃんと予約しておいた。

で、急遽会場階下にあるコンビニのお弁当が配られた。
私が当たったのは、そのコンビニののり弁だった。

この時以来、この会には行かない。
絶対に行かない。

食べ物の恨みは深いのだ。

話を戻すが、なだ万監修の「カップラーメン」だ。
これが売りになるという発想が悲しすぎる。

カップヌードルの王様であるNISSINが老舗とタッグを組んだ商品とういうことなのだろう。

NISSINはともかく、なだ万ブランドが「カップラーメン」を監修することは理解できない。
そもそも、監修する「物」が料理店の理念からかけ離れすぎているだろう。

調べてみるとこの「監修商法」はカレーなど他の即席食品でも展開されているらしい。

料理人の店だと思っていた「老舗」はブランド化されビジネスになった。

プライドも金には負けてしまったのか。

野菜に名前をつける

「大きいことはいいことだ」という訳ではないが、やはり大きさを競うということはどこにでもあるのだろう。

ロイター通信が「米国の巨大キャベツ大会」について発信しているのを読んでちょっと微笑んでしまった。

記事自体は、農作物コンテストの話。

キャベツやかぼちゃの農作物の大きさが競われて、キャベツ部門では10歳の男の子が作ったものが優勝したらしい。

彼は、このキャベツに「ボブ」という名前をつけていたそうだ。
かぼちゃ部門では「エバ」が優勝したとのこと。

野菜に名前をつけて、毎日見守った小さな農業従事者の誇らしい顔が目に浮かぶ。

名前をつけることは、愛すること。慈しむことだ。
野菜は決して返事はしないけど、彼の「ボブ」への愛情のは成長に反映した。

農家が作物を育てることは、換金するためではあるけれど、決してそれだけではない。

見守って、手をかけて、天気を心配して、農家の人達が心を配ったから、私たちはおいしい野菜を頂くことができる。

だからこそ、無駄にしてはいけない。

おいしく食べるためには、食べる方も全力を尽くす義務がある。

食べて、幸せになる責務がある。

だから、美味しいものは、みんなで食べるべきだ。

何故なら、新鮮で美味しい野菜は、みんなで食べるともっと美味しくなる。

そして、大人数で食べれば、傷む前に食べきることができる。

農家に安全な野菜を提供することを求めるのなら、私たちもそれをきちんと味わう責任がある。

農家の人達が手間隙愛情かけて育てた野菜をきちんと食べる。

消費者もまた、生産者に対して尊敬と愛情を向ける必要がある。

2013年9月8日日曜日

アボカドって冷凍できるんだ

近所の八百屋でいつもアボカドの大安売りをしていた。
売れ残ったものを袋に入れて売っているのだが、これ、当たり外れがすごく多い。

たいてい、半分位は食べられない。
でも、半分は食べられる。
だって、8個位で100円なんだから、あまり文句も言えない。

でも、文句を言った人がいるのだろう。
もう、売らなくなってしまった。

まあ、見切り品でもないのに半分近く食べられないなら、文句を言われても仕方ない。

たしかに、切り開くたびに買ったことを後悔させるアボカドを見ていたら文句のひとつも言いたくなる。

まあ、私もそうだった。

アボカドの問題は選ぶ時にその「駄目具合」が判らないことだ。

買ってから硬いから「まだ大丈夫だろうなあ」と思って切ったら、後悔のどん底に落とされることも少なくない。

たぶん、そう感じて買うのをためらうのは私だけではないだろう。
だから、店でも「見切り品」の棚に見かけることがある。

で、ある時、別のスーパーに行ったらやはりアボカドの見切り品があった。

そして、なんとヘタのある頭部分を一部カットして袋詰めされているのだ。

これは、良かった。
同時に「なるほど」と思った。
一部が見えたら食べられそうかどうかを判断できる。

切り口を見る限り「これはいける」と思って一袋買った。
ほとんど食べられた。

でも、今度は食い飽きた。

でも、何とか食べて3日後位経った時だ。
TV通販で冷凍アボカドが売っていた。
あれを「冷凍する」なんて、思っても見なかった。

テレビショッピングから学べることって、あるんだなあ。

2013年9月7日土曜日

シソ味噌が触発する妄想

母がシソ味噌巻きをもらってきた。

とても手間がかかっている。
自家製の味噌をシソの葉に少しずつ巻いてある。
ひとつ食べると極上の味が口に広がる。

すぐに妄想は膨らむ。

季節は新米が出始める時期だ。
このシソ巻きを炊きたてのご飯の上に乗せて食べたらどれほどおいしいだろう。

そういう時は、やっぱりササシニキか。
でも、北海道のゆめぴりかもおいしい。

半分食べたら、出汁をかけてもおいしそうだ。
地元の大豆でできたあの納豆とあわせてもおいしいだろうなあ。

おにぎりの中の具にしてもうまそうだ。

おいしいものは、他のおいしいものへの欲望を刺激し、果てしなく妄想させる。

お米への偏愛を持たない母に、こういう思考が理解できないらしい。

彼女は無農薬だからという理由で、一人暮らしなのに10キロの米を買った。
知り合いから「特別に分けてもらった」らしく安い買い物じゃあなかったようだ。

でも、消費するのに2年以上かかった。
実家に戻るたびに、古米に雑穀を混ぜて「無農薬だから」と言われて食わされていた。

1年後、私は実家に戻る時米を持参した。
母も、2年を過ぎる頃には、さすがに耐えられなかったようで、最後はかなりの量が庭に来るすずめのえさになった。

米が「野菜だ」と実感したのは、新米のおいしさを知ってからだ。
収穫したばかりのお米で炊いたご飯もまた秋の「旬」にしか味わえない。

脇役の「シソ味噌」だが、その渋い深みのある味は、季節の主役「新米」を引き立てる。

見かけは、芋虫が並んでいるようにしか見えないけど。

2013年9月2日月曜日

ソフトクリームとのエクスタシー

ソフトクリームを食べている女性に、男性が惹きつけられるという話を聞く。
女性も、そういう話を知ってか知らずかデートでソフトクリームを食べる。

でも、食いしん坊の私に言わせれば、女性に目が行く程度の味のソフトクリームは、まだまだおいしいとはいえない。

たいてい誰でもソフトクリームの甘さに恍惚になる。
昨今、いろいろなご当地ソフトクリームがあるけれど、ブレンドされた果物などのフレーバーの珍しさと甘みで「おいしく」感じるだけだ。

でも、本当においしいソフトクリームはある。

そんなものを食べている時、目の前にいる異性など眼中にない。

味の恍惚感が与える浮遊感と「生きてて良かった。」という感動する自分しかいない。

そんなソフトクリームを食べたことがある。
十勝、中札内で作られるカマンベールチーズのソフトクリームだ。

うわさは聞いていた。
でも、極上以上の味は想定外だった。

もちろん、チーズも牛乳も地元産だ。

甘さが控えめに感じるのは、チーズのコクが強いからだろうか。

ともかく、日本全国、いろいろなソフトクリームを食べたが、ほとんどが「話の種」程度の味だった。
300円程度の商品で観光客目当てならそんなものだ。

毎回、それを分かっていても食べている。
でも、ここのソフトクリームは違った。

食べている時の記憶はない。
一緒に行った相手の顔も記憶にない。

あるのは感動だけ。
ソフトクリームとのエクスタシーの記憶だけ。

「ああ、あの体験をもう一度!」と思ったソフトクリームはここだけだ。

快感は病みつきになる。

冷凍したあんずと格闘する

実家に戻ると、母の冷凍庫は庭のあんずの木になった実でいっぱいになっていた。

「結構、硬かったしあんまり甘くない。」と話す母。

冷凍されたものをかじっても、よく分からない。
冷たいだけで、とてもおいしい代物とは思えない。

冷凍庫を占領させることもできないので、全部溶かしてジャムにする準備をした。
でも、解凍された杏を食べると、程よいやわらかさになっている。

そしてものすごく旨い。
たしかに、甘みは少ないのだが、味がとてもいい。

失敗した!と思った。

冷凍しておけばいつでもこのおいしい杏を食べられたのに。
冷凍後だったら皮だってそのまま食べられる。
アイスの上に散らせば、劇ウマのデザートになったのに。

どんな果物でもそのままが一番旨いのに。

後悔先に立たず。

母の言葉を疑いもしなかった自分が馬鹿だった。

仕方がないから、調理した。
甘みに味が殺されないように砂糖を少なくしたフルーツソースにする。
保存はほとんど効かないが、甘みが少なければ毎朝のスムージーにも使える。

ジャムを作ろうと思っていたので、ビンはすでに煮沸してある。

解凍すると、杏内にあった水分が溶け出してきた。
水は一滴も入れる必要がない。
プロセッサーで砕いて味見をすると酸味がかなり強い。
砂糖を入れないと保存が利かないので重量の10%位の砂糖を入れた。

味は「丸ままより落ちているなあ」と思った。
そうやって作った杏のフルーツソース、今朝スムージーに豪快に入れた。

パイナップルと一緒に。
むちゃくちゃ旨い。
ヨーグルトの酸味とパイナップルの酸味。

酸味の三位一体だ。

結論。

旨いフルーツに、長期保存の心配は不要だった。