2020年4月29日水曜日

「間違える」ことは肯定できない

障害の有る無しで人を区別することは間違っている、と心の底から信じている。そんな時に読んだ記事に反応して書いたもの。
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2019年4月22日
いろいろなレストランがあっていいと思うけど、その中で最近聞いた「注文を間違える料理店」というニュースを聞いた時、何となく嫌な気分になった。

こちらのレストラン、認知症の方々が働いているらしく、注文を「間違うことがある」らしい。だから、それも「ま、いっか」と楽しんでというコンセプトのレストランとのこと。

その取り組み自体は素晴らしいけれど、こういうニュースを見るといつも思う。何故「彼ら」を特別扱いするのだろうか、と。

条件付きで「「間違えること」を肯定すること」は、間違っている。

認知症であろうが、なかろうが、仕事をするのならきちんとすべきだ。
間違って「お金を貰える仕事」などない。仕事とはそういうもの。
コンセプトは理解できるが、このネーミングはいただけない。

ただ、どんな人だって社会で必要とされる。それは、認知症だろうか、なんだろうが関係ない。「大学卒」というような条件付きの「必要性」など存在しない。

日本においては未だ教育だって「支援学級」と「普通学級」と分けているが、イタリアには90年代から「特殊学級」という考え方すら存在しない。

英語だって今や「ハンディキャップ」はもちろん「ディスエイブル(「できない」という意味)」すら使わない。どんな人もすべて「ピープル(人々)」だ。違いの種類はその後に「with」つけて説明する。

彼らは私達と同じように社会に生きる「人」であり彼らを表現するための「特別な言葉」は不要だ。

このレストランのネーミングに感じるのは「間違ってもいい認知症の人達」と「それを受け入れる大らかな健常者」という区別だ。この区別意識が日本を世界の常識から大きく遅らせている。

彼らをプロとして雇用するのなら、彼らのできる範囲で「正しくやる」ことを求めるべきだ。その上で、私たちが変わればいい。

レストランにおいて「注文通りに料理が出てくることが当然」という考えを止める。

「注文できない料理店」でいいじゃないか。でなければ「ロシアンルーレットレストラン」でもいい。注文したものが食べられないことを肯定するにしても、彼らを特別視しないネーミングがあるだろう。

認知症だけではない。肉体的に、精神的に問題を抱えている人達に対して、表記をどう変えたって事実は変わらない。

確かに、彼らには出来ないことがある。でも、できることだって沢山ある。このレストランだって、みんなちゃんとお客様のところまで、料理を持って行けるのだから。

値段が全部同じで、選ばなくてもいろんなものが食べられるなら、その仕組みを好む人も出てくるだろう。メニューを選んでから「切らしています」と言われるより、ずっとましだ。

どのレストランでも、間違う時はある。それを、食べてもらった方が助かる時がある。
客に寛容になって欲しいのは、別にこの料理店だけじゃないでしょうに。
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言葉ひとつで人はいろいろな判断をする。だからこそ、こういう店の名前や、引いては障害という言葉を人に対して使うことは、間違っている。

障害があるからか間違っていい、なんてことはあり得ないだろう。それは一見寛容に見えるけれど、ひっくり返せば障害を持つ人と自分は「違う」と差別しているだけだ。

どんな障害を持っていても、持っていなくても、人と付き合うなら大切なことは一つしかない。その人をありのままに受け入れること。仲間として受け入れること。その人の「世話」をする必要などない。その人の力を信じて、任せてみればいい。

「我慢してあげている健常者」である自身に陶酔し「私はいい人」という幻想から目を覚ましてほしい。

彼らに「これしかできない」という枠を作ることで安心しているのは、健常者が作った社会であるという事実に早く気が付いてほしい。


レストランが提供するもの

「食事」が「事」であり「文化」であるからこそ、レストランは格式を重んじる。腹を膨らませるだけの「食」とは違う。地元のラーメン屋とレストランの違いは価格だけではない。食事を提供する側も、提供される側も、それぞれの立場があり、そこでどう振る舞えるかがその人の教養レベルに寄る。しかし、食べログ信奉者にはこの違いがどうも判らないらしい。なので、これを書いた。

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2019年4月14日
西洋文化におけるある一定のクラス以上の家庭では、昔レストランデビューというものがあった。大体、それは16歳、アメリカなら、自動車の免許が取れて、デートが許される年齢だ。

貧しい家庭は、そもそもレストランなど行かない。値段もさることながら、そういう場所での振る舞い方を知らないからだ。

もちろん、そこには子供は入れない。どうしても、という時は金を積んで「個室」なら提供しているレストランもあるかもしれないが、極めて例外だ。大抵夫婦は「大人の食事」を楽しむためには、ベビーシッターを雇う。

つまり「レストランで食事ができる」というのは、親にも社会にも独立した「大人」であることを認められていること。レストランは、食事をするだけではなく、そういう意味を持った場所である。

それほど、食事の振る舞い(マナー)は重要視される。

一般家庭にでも感謝祭など親戚がたくさん集まる時には「子供席」とフォーマルテーブルは分かれている。
会話を含めて、食事の行動を身に着けていないと20歳を過ぎていても、フォーマルテーブルには座れない。

ある全寮制の学食では、毎週日曜日、ランチをフルコースで提供していた。正式なテーブルにおいての振る舞いを学ぶためだ。英語がどんなにできたって、まっとうな食事の振る舞いができなければ、ビジネスでは信頼を得られない。

この大学は、家庭事情のさまざまな現実を見据え、受け入れたすべての学生の日常すべてにおいて「教育する場」であり続けていた。

デートもそうだ。16歳を超えたら基本、親は夜の外出を許す。女性の場合、男性は玄関まで来てベルを押して、親はその相手を確認し、送り出す。(昨今は、クラクションを鳴らすだけらしいが・・・)

いつでも子供が「大人になる」のは、本人にも周りにも大きなステップだ。レストランは、その大きな社会的成長において大きな役割を担っていた。

しかし、ファーストフードがデートに使われるようになると「食事をすること」が重要視されなくなった。
日本においては、「ファミリーレストラン」という造語が「外食すること」の意味を変えた。

値段も手ごろで、敷居も低い場所なら、頻繁に利用する。そのような場所で「食べること」が普通になれば「外食すること」の意味が変わる。食事を準備する「面倒」を「金で解決する」場所になる。

これでは、「食」が「事」にならない。ただの「餌」である。
金を払っても払わなくても、ただ与えられるだけ。

その延長で「美味しいもの」を「誰かのコメント」に頼んで選ぶから、どの飲食店も子連れで入れると思う人たちがたくさんいる。企業は儲かるなら、何でもやる。

安くするために「業務用の食べられるもの」の開発も含めて。

今や、ファミリー居酒屋まで出てきている。夜遅く、子供を連れて居酒屋に行く、ということを金儲けが好きな「大人」が可能にした。

でも、連れて行かれる子供達は、そこで何を学ぶだろうか。

「自分が行きたいから」と、子供を連れ歩くことを否定するつもりは無い。しかし、連れて行かれる3歳や5歳の子供だって、常に大人を見て学習しているのだ。しかも、スポンジ並みの吸収力で。

自分の親だけではない。そこに酒を飲みにくる大人達すべてだ。

「子供に隠し事はしない」と胸を張る親も居るだろう。でも、その場所で、親を含めた大人の行動を見て子供は学ぶのだ。本当に隠さなくていいのか。

酒を飲んで、羽目を外して猥談を連発し、セクハラもどきの言動をして大騒ぎするおじさん達の姿を見せることで、どんな教育を施しているか、考えてみて欲しい。

出てくる食べ物より、興味深い振る舞いをしている大人がたくさんいる場所で、親の目が緩んでいる場所で、彼らが見聞きして学ぶことは・・・・神のみぞ知る。

子供達が学校で、そんな大人の真似しても、誰がそれを叱れるのだろう。

そんな子供達が大人になって、本当に国際社会で認められる日本人として行動できるのか。

学校や保育園が、子供にとって社会性を学ぶ場所なら、大人にも大人の場所がある。
だから、待って欲しい。子供はどんな子も社会が「守るべき宝物」だから。

親が子供と「飲むこと」を夢みるなら、その子が5歳の時にやる必要なんてないだろう。
彼らが社会の仲間入りをする日は、あっと言う間にやってくるのだから。

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何事にも「時」がある。聖書にもそう書いてある。その「時」をわきまえることを子供に教えるのは、大人しかいない。大人とは、行動に責任を持つこと。会話を含めてその振る舞いを通して、社会の一員であることを証明できること。レストランは、そういう大人になる訓練ができる場所である。そう思いたい。

毎日の「食事」が「餌」になった時、文化的生活を失った時、そこで作られる人間と家畜にどんな違いがあるんだろうか。

食べられるから、食べ物?

こういう今の食べ物の話もシェフとは意見が合った。シェフのところではパンは知り合いのパン屋から仕入れていたから、この話をするとため息交じりに「みんな値段しか見ないからなあ」とつぶやいた。
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2019年4月8日
先日、珍しくスーパーのパン売り場を覗いた。基本、パンは、パン屋で買うか、自分で焼くか、のどちらかしかない。スーパーのパンは買わなくなって20年以上経つ。
そもそも、イーストフードを体に入れると、頭痛がするので、特定のパン屋のパンしか食べられない。
コンビニのサンドイッチなど論外だ。

そんな私が、夜も遅く、冷蔵庫に余ったチキンサラダをどうしてもサンドイッチで食べたくなり、スーパーのパン売り場を徘徊した。

で、驚いた。食パン6枚切りが85円とかで売っている。2度見したが、やっぱり一袋100円以下だ。

思わず手に取って食品表示を見た。小麦粉とパン酵母以外、理解できそうな食材が使われていない。
もちろん、イーストフードは入っているはず。

ここで思ったのは「これをパンと呼んで良いのだろうか」ということだった。
確かに大手パンメーカーの作った食パンの形の食べ物である。

たしかに、昔も安かった。パン屋の食パンは一袋200円以上だったが、スーパーでは、150円程度だった。
給与が少なかった若いころは時々買っていたが、頭痛がするので買わなくなった。

1990年代、アメリカのスーパーに「ワンダーブレッド」という大手メーカーが作るパンが売られていた。
貧しい家庭の主食と言ってもいいほどの値段だった。今もきっと売っていると思うが、友人はそれを「あれはパンじゃない」と言い切った。パンの味が何もしない、というのがその理由だった。

たしかに、安かった。貧乏学生の自分もその安さでランチ用のサンドイッチとして買ったことがある。
甘味が付いたスポンジみたいな歯ごたえで、パンらしい味は何もしなかった。
あれから30年近く経った今、そのような「パン」に誰も疑問すら持たない。

安いから買う。これは理解できる。でも、私はこの商品を「安いから」と言って買うことは絶対にないだろう。

何故なら、パンの形をしていても、パンとは思えないから。
「パンだ」と思えば、パンなのかもしれない。パン会社が作っているのだから。

でも、私にはこの「食べられる物」を体の中に入れること自体が恐ろしい。

怖いことに、飲食店で提供されるものには、原材料を表示する必要すらない。
どんな食材を使っているかは価格から推測する以外ない。

オランジュは、マヨネーズも自家製だ。しかも、それも本物の卵を割って作っている。
だから、そんな心配は不要だが、他の「安くて美味しい飲食店」はどうなのだろうか。

飲食業は、(閉店するのも早いけれど)簡単に開店できる。業務用の食材もいろいろ開発されている。
それなりに安くて美味しければ人が来るだろう。

でも、そこで食べるものは本当に「食べ物」なのだろうか。
「食べられる物」であることは間違いない。腹は壊さないのだから。

そんな「食べられる物」があちこちに出てきている。

「食べる」か「食べない」か、は個人の自由だ。
砂糖もそうだが、販売は違法じゃない。大量の砂糖が塗されたドーナツを作るのも自由だ。
同じように、遺伝子組み換えされたトウモロコシで作られた甘味料をどれだけ使って新しいソーダドリンクを作るのも自由だ。それを「激安飲み放題」とPRしてお客を呼ぶことも自由だ。

飲食店経営者が「食べ物」ではなく「儲け」しか考えない店であったとしても、私達が利用すればその存在を支えることになる。つまり、その「食べられる物」も支えていることになる。

消費者が「安さ」だけで選択するほど愚かなら、大企業は儲けるために、どこまで行くのだろうか。

外食産業が発達した現代、食べ物が手軽に手に入るリスクは、かなり大きいとしか思えない。
WEB時代だから「知らない」というリスクではない。自身の体の中に入れるものに対して「気にしない、考えない」という「無関心」というリスクだ。

体は「食べた物」で出来ている。

20年後の自分の健康は、今、毎日食べる物の積み重ねだ。「何を食べるか」は、繰り返すことで習慣になる。
「安さ」だけで選び、食べ続けた結果、健康診断の再検査に招待されるのは、自分自身だ。

その頃、大企業は「安い」だけで買い続けた消費者によって、大儲けしているはずだ。

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マヨネーズを作るのは、それほど難しくない。でも、一旦作れば、その油の多さに驚いて二度と常備しようなんて思わないはずだ。
私も、今はマヨネーズが本当に必要な時だけ作るようにしている。大企業のマヨネーズを常備すれば手軽に消費してしまう。食べ物が美味しくなるから使用量も増える。

このサイクルにおいて、大企業は儲かり、消費者の健康は悪化する。何故なら、大量の油は健康を害することは様々な研究発表からも明白だ。

だからこそ常備しないことが重要になる。

安くて美味しい。だから食べるべきか、を判断するのは自前の脳みそにゆだねられている。もっとも、欲望の前に、脳みそが機能停止になることも少なくないけど。


2020年4月21日火曜日

何が注文できるのですか

このレストランのブログを書くことになって一つシェフに約束したことがある。作る人の悪口は書かない。それは、食いしん坊のブログでも同じだ。だからこそ、これを公開すべきか悩んだ。しかし、事の顛末をシェフに話した時、いろいろな議論ができたから公開することにした。
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2019年3月31日
先日、友人とイタリアンレストランに行った。
コース料理でもなく、アラカルトを頼んだ。

アラカルトだから、テーブルにあるメニューから頼む。当然だ。

問題はデザートの時に起こった。

メニューに書いてあるから、珍しそうなものを注文する。
同じカロリーを摂取するなら、コンビニや自宅で作るものじゃあないものを食べたい。
たしか、グラニテだった。

ウエイターが戻ってきて「ごめんなさい、切らしています。」という。

別なデザートを頼むと戻ってきて「すみません。こちらも切らしています。」という。

これは体重計からのお告げだと思って、諦めた。コーヒーを頼んだら、
「マシンが今壊れてしまって・・・」とくる。

じゃあ、同じ飲み物を、と頼むと「それが、最後の1本でした。」とのこと。
ここまで来ると、これが出た。「じゃあ、何が注文できるのですか」と。

シェフが出てきてかなり恐縮しながら「ちょっとずつの盛り合わせはできます。」と繰り返し言う。
つまり「デザート盛り合わせ」に使うバニラアイスなどの定番デザートは、注文できるということだろう。
コーヒーは飲めない上に、デザートも選べないなんて・・・悲しすぎる。

こんな体験をすると個人レストランに「印刷したメニュー」が必要なのか、と思う。
サイトとかでもそうだ。たくさん情報があればあるほど、料理への期待は高まってしまう。

食事は、メニューを「選ぶ」段階から始まっている。選んだものが「食べられない」という失望感は、次に何が出てきてもその「食べられなかった1番目」より劣ってしまう。

オランジュのコースディナーのように細かい情報を「知らない」なら、失望感は生まれない。
一皿との「美味しい出会い」は「感動」を生む。

レストランだって、材料の値段によっては何か月も「切らす」一品もあるだろう。
メニューの商品が「切れています」と答えることで、どれだけの客の信頼を失っているか、考えたことはあるのだろうか。

それより、こんな、お互いにとって不幸になるようなメニュー表記は一体誰が必要とするのだろう。

レストランは、仕入れに寄って作れる料理が異なる。それでいい。
客が知る必要があるのは、それが「何か」で「いくらか」だけだ。
料理が判らなければ、店員に聞けばいい。
それが嫌なら、スマホで検索すればいい。

レストランには、料理を売って欲しい。

特に、個人レストランは、ファミレスじゃないのだから。
年中「印刷されたメニュー」を作るだけになって欲しくない。

もっと自由に、素晴らしい技術を発揮してもらって構わない。
食材が手に入らないなら、メニューに入れなければいい。

それが毎日違っても、毎週、毎月違っても、それでいい。
決まったメニューになんて縛られなくていい。

値段は確かに知りたいが、「一番安い一皿」を注文したいためにメニューを見るのではない。
「食べたい」から選んだのだ。

財布と体重計が理性と共に選んだ1品だ。選んだその一皿を食べるまで満足はしない。

シェフが勧めたデザートの盛り合わせ、完食したけど・・・・
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欧米のビストロクラスの店にある印刷されているメニューは、飲み物だけだった。たしかに定番料理のリストはあったかもしれない。でも、大抵のオーダーは黒板に書かれたものからしたような気がする。

当時店では、すでに固定メニューが無かったけれど、シェフはその運営がどうして難しいかを説明してくれた。お客様がが値段で料理を選ぶから仕方がないらしい。でも、それだと店はオーダーがなくてもある程度は仕込まなければならない。これって、誰もハッピーにならない仕組みだ。

「お客様」が「神様」という「階層」が壊れた時、初めて儲け以外の価値観が重要視されるのかもしれない。

食の刺激

シェフも知っている元同僚がレストランのブログを読んでいて「私たちのことも是非書いてください」とかなり強くねだられて書いたのがこれ。
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2019年3月23日

昨今、辛い食べ物がブームになっている。カップラーメンもスナック菓子も「辛い」ことを売りにしている。

先日、若い同僚が昼食に食べていたカップラーメンにはどくろマークがついていた。

良く読むと「食べる時は(めちゃくちゃ辛いから)気を付けて下さい」と表記している。

どくろマークが付いた食べ物を作る会社があるということにも驚きだが、そのような食べ物を買う消費者の意識も理解不可能だ。

私の知っている文化では「どくろマーク」というのは「毒」であり、「取扱注意」の意味がある。

そのマークがついていれば「食べちゃダメ」という意味があると思っていた。時代の移り変わりは、マークの意味すら変えている。

そんな同僚とランチをする機会があった。もちろん、辛いラーメンを食べる店だ。

その店のメニューがすごかった。まず、ベースのラーメンがある。これに辛さのレベルを6段階つけて、その段階ごとにベースのラーメンの値段にプラスされる仕組みだ。

それにから揚げやチーズなどのトッピングもプラス料金となる。

残った汁は、キッチンで再びおじやにしてくれる。(これもプラス料金だ。)つまり、ラーメンを食べた後、おじやを食べる、ということだ。1回で辛い炭水化物を2種類味わうことになる。

どんぶりには「ここまで食べたらおじやにしましょう」という汁を残すラインまで入っている。すべてを食べきる仕組みは徹底している。

彼女たちは、6段階の上を行く店最上級の「辛い」のラーメンを頼んだ。私は1段階目の辛さで十分だった。ラーメン自体はスープを丁寧に取っているらしく美味しいと思ったが、使っている油の量は半端ない。

冷えた残り汁の上に油膜が張るほどだ。大体、油が多くて不味くなる料理を作る方が難しい。

中華料理に代表されるように、油が多ければたいてい美味しく感じる。から揚げ、とんかつ、てんぷら、すべて大量の油が使われている。

この油の量、おじやにして完食すればどれだけ摂取したことになるのだろう。炭水化物の量は言うに及ばず。それを1食で、だ。

彼女たちは極辛ラーメンの残り汁をチーズおじやにしてもらい、汗をかきながら食していた。汁もご飯も完食だ。「美味しかった」というコメントを聞きながら、私が決して「知ることのできない味」がここにあると悟った。

ただ、家ではこれほど辛い料理を食べないらしい。辛い料理は彼女達の「楽しみ」であり味覚的「刺激」にハマっているようだ。

どんな楽しみも、自身の健康があっての体験できる。胃も身の内。肉体、特に内蔵は取り替え出来ないのだから、大切にしてね。

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元同僚は、今も激辛人生を送っているらしい。「人生の刺激は味覚から」というのは理解できる。しかし、昨今の激辛ブームの元で開発される続々出てくる新商品、食べ物を呼んでいいのだろうか。

彼女達もそういうものを食べた後は、トイレで苦しむらしいが、止められないらしい。まあ、何事も体験だけれどそれも健康あってのこと。無茶はほどほどに。

ほぼベジタリアンの友人が言うには

シェフと話すことはほとんどが食べ物の話だった。この話は、シャラン鴨がお肉になる工程を話していた時、友人の意見を披露した。
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2019年3月17日

葉山に住む友人がいる。彼女はほぼベジタリアンだ。元々、肉はあまり食べない人だったが、今や完全に食べられなくなった。食べられるタンパク質は1個50円の平飼い卵だ。

たまに魚。彼女曰く「自分でさばける命しか頂く気がしない」とのこと。

昔ハンターの友人が居た。彼は、毎年鹿を打ちに行くことを楽しみにしていた。打った鹿は全部冷凍していた。ある時、彼に「なんで鹿を打ちに行くの」と聞いたことがある。そうしたら「食べるため」と即答された。

この2人、食の指向は異なるが、考えは似ている。「食べるため」に「命」を「頂く」ということ。私たちは他の命を「頂いて」生きている。日本人が食事の前に言う「いただきます」にはそんな意味も込められている。

私たちは、スーパーで手にする牛肉や豚肉がかつて命ある「牛」や「豚」であったことをどれだけ意識したことがあるだろうか。

値段と産地しか気にならないという気持ちは理解できるが、買い過ぎた食材を捨てる時、私たちは「何」を捨てているのだろうか。

コンビニに代表されるように、工場で作られる食べ物が身近になった時、気になるのは添加物や保存料かもしれない。でも、そのサラダチキンの「元」は命があった。

アニマルウェルフェアという言葉がある。「動物福祉」と訳されることが多いが、簡単に言うと「動物に苦痛を与えない」という考え方だ。

これは、ペットだけではなく、家畜であっても同じこと。それが、飼養の間はもちろん、屠畜時においても動物の身になって「苦痛の無い方法」で行う。(そんな方法は無いとは思うけど。)

これは、世界的に一般的になりつつある。

しかし、日本にはまだまだ浸透していない。30センチ四方の立方体で一生を過ごす鶏から、ほとんどの卵は生産されている。1パック100円のチラシの目玉として載せる卵を産む鶏に、自由という選択肢は無い。

葉山の友人が言うには「自分の体に入れるものには気を付ける。情報も食べ物も、恨みとか憎しみ、苦しみに関わるものはできるだけ体に入れない。屠畜されるまで恐怖や苦しみの蓄積された肉は食べたくない。そんな動物の念というか情を体に入れなくても十分生きてゆける」とのことで、ほぼベジタリアンになったらしい。

食べ物を粗末にしない、ということは「命」を粗末にしないということでもある。

簡単に手に入る食べ物、しかも安ければ安いほどいい。

賞味期限が切れたら捨てればいい。売れ残れば捨てればいい。
こんな考えが当たり前の時代だ。命まで簡単に捨ててしまう人間が増えるのも当然だろう。

食べ物が人を作る。

それは、肉体的な意味だけではないのかもしれない。
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シェフは、この考えを「面白い」と思ったらしい。だからと言って卵を平飼いに変更できるわけではないけれど、食べ物に安さしか求めない消費者に対してもどかしい思いは感じていた。

食ビジネスのプロが一番心配するのは、食の安全だ。食材が安心、安定的に仕入れできるところはどの街にもそれほどたくさん有るわけではない。

肉類なら家畜の居住環境はもちろん、食べるエサの管理も重要になる。餌の種が遺伝子組み換えなのか、そして農薬濃度は基準値を超えていないか、そこまで気にするシェフは今日少なくない。だからこそ、食材調達は同じ哲学を持った生産者からフェアな値段で、と考える。アメリカ西海岸ではそういうレストランや生産者がネットワークを組み始め、新しい形の外食産業が生まれている。

世の中を変えるのは、消費者一人ひとりが、何を選択するかで変わる。

手に取ったその食べ物で、体も魂も作られるのだから。

ワイン会の醍醐味

酒を飲む目的は人さまざまだが、若者を含めてアルコールの摂取は「酔えば快楽」だからだと思う。

アルコールに弱い私にとって「酔うと快楽」は5秒しかない。その後一晩中続く「酔うと地獄」を何度か経験すれば食いしん坊だって学ぶ。現実を受け入れるしかない。
でも、好奇心は止められないからこういう会にも参加する。
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2019年3月10日
オランジュのワイン会、主役になるのは間違っても「鹿肉」ではない。

ワインだ。料理はたしかに美味しいが、ワインを引き立てるためのものである。
実際、ワインと一緒に食べてみて「やっぱりフレンチにはワインがあった方がいい」と再認識した。
あまり飲めない私ですら、そう思うのだから、飲める人にとってちゃんとフレンチを食べるなら、ワインは「必需品」なのだろう。

今回、同席した方々は、ほとんど常連さんだったし、もちろん皆さんワインを飲めるだけではなく、良くご存じだった。

横にいらっしゃったご夫婦は、なんとオランジュの84回のワイン会すべて参加している。「飲んでも名前とかすぐ忘れちゃうのよ」なんて話されていたが、ワインの種類名がスラスラ出てくる。

反対側の奥様は、旦那様と海外のワイナリーツアーにも参加される本格的なワイン好きだった。ワインのバラエティもさることながら、集まる人のバラエティもとても魅力的だ。

そんな人達の中で、私一人マネージャーに「大匙1杯で十分です」と注いでもらう。彼は「それって一番難しいんだけど」と苦笑いしながら言われるが、美味しいワインを無駄にしたくない。

ともかく、味への好奇心が止められない。

だって、全部個性的な風味がある。しかも、時間を置くと変わる。
こんな面白い飲み物は他に無い。しかも、今回は8本もある。

特に最後に飲んだ赤ワインは「毎日飲んでも飽きない味」という寸評が添えられていたが、その通りだった。美味しい赤ワインがよく「ベルベットのような」と表現されるが、そのワインののど越しは他のワインとは比べ物にならないほどスムースに流れ込んで行った。

これらのワイン、テーブルに着くまで、運送と保管がきちんとされていないと美味しくない。
だから「どこから買うか」が重要だ。誰もがそんなルートを持っているわけではない。
ここオランジュは確実にそのルートを持っているし、なにより手に入れたワイン、適温で美味しく保管している。

産地で何年もかけて作られて、遥か日本まで運ばれ適温で保管されなければ、ただの飲用アルコールになってしまうワイン。これは、酔っぱらうためだけの飲み物じゃあない。

半分酔っぱらった頭で、そんなことを考えながら会場を後にした。
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食べ物にワインが選ばれる。味のバリエーションは、この選択でどれだけ変わることか。

お客様の中で、ワインラベルを写真に撮って検索、原価を確認していた人が居たらしいが、そんな意味があるんだろうか。同じワインだって、どこから買うかで全く味が違う。そもそも保管状態も信用できない通販の無名会社から「値段」だけで買うなんて商売人じゃあ誰もいないでしょう。

批評家を気取って、投稿するのは自由だ。でもそれを読む消費者は彼らより利口になろう。評価が対費用効果を語る人の舌には、味覚センサーは付いていない。計算機は付いているけどね。



「デート」と「ロマンス」

シェフの店では、毎月イベントを実施していた。これは、2月のバレンタインイベント終了後にシェフの思いをお客様に伝えたくて書いたもの。
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2019年3月10日
店では2月に「バレンタイン応援ディナー」という期間限定のイベントを実施した。
それは、コースディナーB以上を二人で予約するとそれぞれ、2杯づつ、合計4杯分の飲み物が無料になるというものだった。

それぞれ2杯も無料なんて「ずいぶん気前がいいな」と思ったのでシェフにその目的を聞いた。
「若い人がこういう店に来て、ディナーに飲み物を頼むとかなり高額になってしまう。だから、バレンタインデーの時くらいは、俺も応援するから、男性も頑張って背伸びして来て欲しい」とのこと。

だから、沢山予約が入った、ならうれしいが、そんなことは無い。でも、シェフの目論見通り、何カップルかを「応援できた」とのこと。

そのうちの一カップルをワイン会の時に見かけた。20代か30代、まだ若いカップルだった。

私が鹿肉に目の色を変えている時、二人が会計の方に向かっていった。
あまりに幸せそうな雰囲気だったので、その時だけ鹿肉から目が逸れた。

女性はドレスアップしてとてもかわいかった。そんな彼女を若い男性はエスコートしてちょっぴり誇らしそうだった。たぶん、デートだろう。本当に素敵なカップルだった。

レストランは、ただ空腹を満たす場所だけではない。大切な記憶を作る場所でもある。男性は(彼女のためじゃあないかもしれないけど)素敵なレストランを予約した。女性は(彼のためじゃあないかも知れないけど)ドレスアップした。お互いを思いやる気持ちが通じていれば、きっと素敵な時間を過ごした(と思う。)

デートに「効率」と「割り勘(公平性)」を求めることが間違っているとは思わない。でも、そこから「ビジネス」は生まれても「ロマンス」は生まれないだろう。

一緒に食べる時間が「ビジネス」になったら重要視されるのは「価格」だ。そして「対費用効果」。もちろん自分自身にとっての「費用効果」だ。

ならば、そのような時間を「デート」と呼んでいいのだろうか。

昔は簡単だった。デートで食事をするのは、少なくてもロマンチックな関係に発展するかどうか、お互いで作り出す化学的反応の量を探り合う時間だった。それに対して「対費用効果」なんて考えたこともない。
結婚だって同じだろう。損得だけで一緒に暮らしてその先に家族ができるとは思えない。子供はできるかもしれないけど。

今は「ロマンス」が生まれ難い時代だと思うけれど、デートに「ロマンス」が無くて、何故一緒に飯を食うのだろう?

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私が予約の結果を聞いた時、嬉しそうな彼の顔が浮かぶ。来客数からみれば、決して成功したイベントではなかったから笑顔は苦笑いだったけど。

でも、このお客様を接客すれば、彼の嬉しそうな顔も理解できる。

あの寂しそうな笑顔はとても彼らしかった。

2020年4月5日日曜日

プロの仕事

夜遅く店の前を通る時、必ずと言っていいくらいシェフは店に居た。
彼が立っていたストーブの前のフローリングは、滑り止めとなる凸凹がすり減って消えていた。

過労死を肯定するつもりは全くない。でも、人生においての「仕事」とは生活費を稼ぐためだけにするのではない。
どの世界でもそうだけれど、プロが消える時、安心できる社会も消えてゆくような気がする。

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2019年3月10日
シェフは、毎日レストランで料理を作っているだけではない。
料理教室の講師や地域イベントへの参加、出張料理などいろいろな食に関する仕事が舞い込んでくる。

いつだったか、900食の弁当を作る仕事が来た時のこと。
詰めるのに半日はかかるだろう、という弁当屋の友人の意見を全否定し、かなり機嫌を損ねた。
でも、実際6時間程度で終わらせてしまった。「本当にできたのか」というので数えなおすのに40分かかったそうな。

何故そんな芸当ができるか、というと若い時のある修業時代、毎年弁当2000個作る職場にいたからだそう。「工場じゃないのにできるのか?」と聞いたら「広げるスペースと詰める人さえいればできる」と断言する。

シェフ達は本当にすごいと思う。

先日、地元のホテルでの大宴会に行くことがあった。集まった人数は約600人。
10人座れる円卓がいくつあったのだろうか。

3時間きっかりで、その全員に飲ませて、食べさせて、果物のデザートまで提供した。
提供された料理は、サラダやカルパッチョなど、5品程度だったと思う。あんかけやクリーム煮などは温かいままで食べることができた。

それが商売といえ、感心するしかない。それぞれの料理を作るタイミングやどのテーブルから運んで、どこまで料理が出し終わったのか、を確認しながらこの600人数分の料理を作り、時間内に提供するのだ。それも、複数種類のメニューで、だ。

作る料理の選択を間違ったら時間内には提供できないだろう。食材の見積も確保も、この人数に同じものを提供するとなるとかなり詳細に計画していないとできっこない。
加えて、それが企業なら予算内に収めて、利益を出す必要がある。

素人から見ると神業みたいに見える。でも、それが彼らの日常だ。
消費者が彼らの仕事と出会うのは、彼らの「結果」を出す時だけだが、その日のためにどれだけの準備をしているか。

ここのシェフもそうだが、みんなきちんと結果を出す。それがどんなに大変であっても言い訳しない。プロのシェフとして仕事をするのなら、そんなことは「やって当然」ということなのだろう。

振り返って、自分達の職場はどうだろう。

期限までに月次レポートが提出できないことを毎月、同じような言い訳をしている担当者がいる。「俺は寝ていないんだっ」とか言って、どれだけ自分が頑張っているかを周りにPRする。机の前で時間だけ過ごし「前例無し」で、書類を却下し責任回避することを毎日続け、給与のベースアップは主張する。
彼らが、世界的に有名な日本の「生産性の低さ」の原因であることは間違いない。

それより、こんな人達の仕事っぷりを、20代の人達は背中から見ているのだ。
日本の企業は本当に大丈夫なのか?

いろいろな仕事があり、難しさは様々だ。でも、仕事をし、対価や給与を得るための目的は一つしかない。
責任を果たし、結果を出すことだ。

「仕事をする」意味は、一人でやっても、チームでやっても「結果を出す」こと。そのために、それぞれの場所で、自分の役割の果たす。それがその人への「信用」に繋がってゆく。

それが、人生になる。そして、やがて、大きな仕事に、そして大きな信頼に繋がってゆく。

結果を出さなくても、給与がもらえる仕組みがあれば、何も決めない会議ばかりやって「仕事をしている」ふりをする人間がはびこるのは当然だ。

シェフ達の世界はシビアだけど、傍から見ていて心動かす「何か」がある。

彼らの労働環境もいろいろ問題はあるだろう。でも、この世界のプロ達は間違いなく「仕事」をしている。
そんな人達を支えるのは、消費者の私たちだ。

「どこで食べるか」を選ぶことは、目に見えない「何か」を支えること。ぐるなびで検索しても出てこないけどね。

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仕事を時給換算でしか判断しない労働者の考え方は、シェフもまた経営者として困っていた。それでも、法律の、時代の変化になんとか対応しようと頑張っていた。

先日、地元の有名なカフェの正社員求人を見た。年間休日日数73日。完全な労基法違反だ。田舎では、経営者としてこういう求人広告を平気で出す会社だって少なくない。

誰が悪い、という訳ではないけれど、プロとして結果を出すためには、個人の努力が不可欠だ。その努力する時間に給与が貰えなくても仕方がないだろう。

人生の選択は、本人次第だ。


鹿肉キター

ワインがあまり飲めなくても、体験すること以上の学習は無いことは知っている。

だからこそ、いろいろな所に頭を突っ込んできたけれど、ここのワイン会ほど「なるほど」と思うことが多かった会はない。

それほど、知的好奇心も満たされたということ。
でも、この好奇心、食欲ほどは強くない。

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2019年3月2日

ほとんど飲めないけど、オランジュ主催のワイン会に参加した。

昔、長野のペンションでメルシャンに勤めていた人がやってくれたワイン会に何度か参加し、赤ワインと白ワインには、色以上に違いがあることを学んだ。
また、いろいろなワインを比較して飲むことで自分の好きなワインがなんと呼ばれているものかも学んだ。

それしか学ばなかったけど、その後の人生において役立つ時がしばしばあった。

つまり、私にとってのワイン会は、異なるワインを数種類味わって舌と好奇心が十分満足できるという絶好の機会である。

たしかに、いつも食べるディナーより少し高い会費だ。でも、いつもは食べるだけ。
今回は、何種類ものワインはもちろん、シェフの料理付きだ。
間違っても、調味料の味しかしないタイ産のから揚げなど出てこない。

ワインだって、体験無くして学習無し。
以前だって、複数のワインを比較できたから味の違いを理解したのだから。

そのワイン会、一人遅れて行ったら、なんとお誕生席だった。
もっとも、一人で参加するから仕方ない。

知らない人ばかりの中に、遅れてここへの着席はかなり緊張した。

で、前菜がすでに置いてある。
お誕生席からはちょっと離れていたので、少ししか食べられなかった。
皆さん、気を使って取り分けて下さったけれど、やはり立ち上がって2回目をよそうには気が引けた。

美味しそうな前菜が目の前から消えて行くことに少しだけ残念な思いはあったが、まだメインがあると判っていた。

そして出てきた。

鹿肉だ。
しかも、ソースが違う。

思わず万歳した。

マネージャーは笑っている。私がそんなにこの肉が好きなのか知らなかったらしい。

自分だって知らなかった。

このシーズン、初めてオランジュの鹿肉を食べるまで硬くてちょっと獣臭い肉だとしか思っていなかったし。

今回のソースは、赤ワインを干しブドウと煮詰めた甘めのソースだ。
これが出された赤ワインと絶妙な風味を作り出す。

ソースを絡めて噛み締める鹿肉と、そのワインをすすれば口の中は至極の「マリアージュ」だ。
こんな体験をしてしまえば、ワインあっての料理は当たり前になる。
味も風味も数倍、複雑なものを楽しめる。

ほとんど飲めない私ですらそう思えるのだから、飲める人には天国だろう。

ある参加者は、全部の試飲が終わった後、食事をしながら、8種類のすべてのワイン、再度、味の確認をしていた。

うらやましいと思うが、自分のアルコール許容量を知っているから無理はしない。

でも鹿肉は別。アルコールじゃないし、自分の胃の限度はよーく知っている。

皆さん、前菜を十分に召し上がったようで、あまりメインに食が進まない。
いやしいとは思いつつ「もう食べないのですか」と確認しながら、ほとんど一人で平らげてしまった。
だって、これを残すなんてありえない。だって肉質もソースも絶品の一皿なのだから。

このシーズン3回食べた鹿肉、すべてソースが違った。

シェフっていったいどれだけレシピの引き出し持っているんだろう・・・。

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普通の食材も極上の一皿に仕上げることができたシェフだったが、彼が喜んで料理するのは、こういう特別な食材だったような気がする。

食材の保存から料理の方法まで、すべてを理解し、衛生的な取り扱いを徹底して初めて目の前の一皿になる。技術はもちろん、料理への情熱無くして続く職業じゃない。

そんな職業は、過去の遺物になりつつあるのかもしれない。

豆を煮る

シェフと話す時は、大抵食べ物の話しになる。それも味ではなく、その調理工程だ。
シェフは当たり前のように話すが、どれを聞いても気が遠くなるほど下ごしらえに時間がかかっていた。これは、そんな沢山聞いた話の一つ。

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2019年2月23日
子供の頃、正月の黒豆は真空パックから出てくるものだとずっと思っていた。
だから黒豆は「甘くて不味い」というの印象しか無かった。

でもある時、祖母みたいな親戚が丹波の黒豆を煮てくれた。
あの衝撃は忘れられない。食べた後、私は「これは何?」と尋ねた。

自分で煮る豆があれほど美味しいとは知らなかった。
それから豆を料理することも多くなるが、豆をどこから手に入れるかで味が全く違うことを学んだ。
また、豆の賞味期限が1年であることも身をもって理解した。

前年の売れ残りは、加工して真空パックに入っている。
そうでなければ丹波の黒豆の真空パックが300円で買えるわけがない。

子供の頃に食べた真空パック黒豆は、ただの黒豆だった。
一体どのくらい古い豆だったのだろうか。

で、花豆をもらった。昨年の秋に取れたものだ。それは間違いない。
甘い煮豆はすぐ飽きるし、いろいろ使いまわしができないし、何か美味しく食べる方法はないか、シェフに聞いた。

給水を2日、調理した後、3日冷蔵庫で寝かせて、とのこと。

豆を煮るだけで5日間だ。
私も豆を煮るが、正月の黒豆だって一晩寝かして煮る程度だ。5日かけて豆を煮るなど、聞いたことがない。

時短料理がもてはやされる今の時代、手間をいとわないシェフの調理法は間違いないとは思うけど、なにせ5日だ。でも、寝かせるだけだし、花豆を甘く煮る以外の食べ方への好奇心が湧いたので実験してみた。

給水をさせて1日目、鍋を開けてびっくりした。鍋一杯に入れたはずの水はすっかりなくなっていた。
もう一度、仕切り直して給水させてもう1日、大きさは倍になっている。

教えてもらった通り、チキンスープで煮て3日間冷蔵庫で寝かせた。

で、食べてみたら、豆の味しかしない。
母親に味見させたら「美味しいけど甘くない」と言う。

彼女には「花豆は甘い物」という固定観念がある。でも、味は気に入ったらしい。チキンスープで煮ているため、このままシチューでもサラダでも何にでも使えそうだ。

豆を甘く煮るのは、たぶん砂糖が高級品だった頃の名残なのであろうか。
黒豆も甘いけれど、豆はもっといろんな食べ方をされても良いと思う。

これもシェフが教えてくれたので、チキンと一緒に白ワインで煮た。
1日目より2日目が断然美味しかった。

フランス料理では、豆を塩で煮る料理もあるそうな。

沢山煮た花豆は「欲しい」というから母にも少し分けた。
どうやって食べたか聞いたら、なんと、ブレンダーで、粉砕しクリームシチューの素と混ぜてシチューを作ったらしい。

それじゃあ、シチュールーの味しかしないでしょうに・・・・ああ、なんと、もったいない。

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シェフにこの母の行動を話したら、苦笑いされた。

何事も控えめなのに、料理となると絶対譲らなかった彼の真面目な顔を思いだすことがほとんどだけど、彼と話していたことを思いだす時は、こんな苦笑いの顔が多い。

思い出は、未来に繋がるものではないかもしれないけど、思い出せる間はその人が生きているような気がする。



2020年4月3日金曜日

コースランチで判ること

シェフとコースランチの値段のことを話したことがある。
あまりに値段が安いので、「あの値段で儲けがでるのか?」と聞いた。

彼は「食材は普通のものだから、後は手間だけだよ。ちゃんと儲けは出るよ。それよりまず食べてもらいから。」という回答だった。

「食材は普通」という意味は、高額な食材ではない、という意味だ。
普通の家庭で使う鶏肉や豚肉、そしてトマトやニンジンなど普通の野菜をメインに使っているのに、その一皿は一口目から言葉を失うほど美味しい。

そんなコースランチを食べた時に思ったことを書いたのがこれ。

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2019年2月25日
仲間と一緒に映画を見た後、オランジュのコースランチを食べに行った。

どこのフレンチレストランでもそうだけれど、ランチはかなりお得だ。
フルコースがディナーの半分程度で食べることができる。

じゃあ、何が違うのか。

使う食材が違うのは間違いない。

昔、ある雑誌記事で「ランチを食べに行って、シェフの技術を味わいディナーに行くべきかを判断する」ということを読んだことがある。

当時は若かったので、都会の本格フレンチなんて値段の関係上、ランチだって敷居が十分高かったが、その通りだと思った。

シェフのコースランチを食べると、この記事のことを思い出す。

コース料理は、私達でも使うような食材作られているが、技術の粋が詰まっている。

今回も、最初のアミューズを食べた時、初めて食べた仲間の一人は言葉が無かった。

別の若い仲間がこれを3年前に初めて食べた時、それまでの人生において味わったことのないこの一品に「これが大人の味なんだ」と思ったとのこと。
たしかに「美味しい」と一言では表現できない料理であることは間違いない。

メイン食材は、ニンジンとトマトだ。

次に出てくるテリーヌだって同じようなもの。美味しさはもちろんだけれど、その断面の美しさもしばし見とれてしまう。

今回は春を感じる「ふきのとう」のソースが使われていた。
本当に後味に少しだけ感じられる程度だが、シェフ独特のものだ。

そんな調子で、デザートまでゆけば春の食材である「イチゴ」のシャーベットとブラマンジェが出てきた。もちろん、ソースがかかっているから、この一皿でいくつもの味が楽しめる。

コース料理の楽しみは、味だけじゃない。バランスと一連性だ。
コースを通して「春」が演出されている。
外は真冬日でも季節を先取りしている。食べるだけでウキウキしてくる。

食が細い一人は「パンがもっと食べたかったけど料理が次から次へ出てくるから無理だった。それでもデザートはかなり厳しかった」とのこと。

ここのコースは、量は少なめに、と言えば一皿の量を少なくしてくれる。
人それぞれ食べられる量が違うけれど、過ぎたるは及ばざる如し。

自分の食欲はこの意味を学んでくれそうもないけど・・・。


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シェフのコースを食べる時、いつも思うのがオーケストラだった。一貫したハーモニーをコース全体に感じた。

アミューズからデザートまで、素材を通して演奏される音楽のようだった。

「食事」は「餌」とは違う。動物は腹を満たすだけで満足するが、人はそれだけでは足りない。どの時代、どの文化においても料理は味以外の要素が占める割合が多い。だからこそ、食事は人生においても重要な要素なのであろう。

でも、人が、工場生産される安い「餌」で満足するなら、それを食べ続けるなら、そこからどんな「文化」が生まれるのだろうか。

可哀そうなマッシュルーム

シェフの店のランチはいつもそこそこの人が入っていた。
日替わり目当ての人や、定番料理目当ての人など結構「お一人様」も多かった。

フレンチレストランにディナー一人で予約するのはとても敷居が高い。でも、ランチはそうでもない。お値段も敷居もかなり低くなっている。

シェフにとっても新規のお客様開拓のチャンスだった。だから、技術全開で料理を提供してくれた。これは、そんなランチを食べた時の感想。

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2019年2月12日
久しぶりにオランジュのカジュアルランチを食べに行った。
最近は鹿や鴨のディナーの誘惑が多かったから、すっかり忘れていた。
ここのカジュアルランチ、1000円程度なのにとても充実している。

パンかライスか選べるワンプレートランチには、メインに野菜サラダが付いている。
これには、自家製のドレッシングがかかっている。

いつだったか、好奇心で新しいレストランのランチを食べに行ったことがある。
出てきたワンプレートランチに付いていた野菜サラダ、食べるとキューピーの業務用サザンアイランドのドレッシングの味がした。ドライブインと同じ味だ。

シェフのカジュアルランチ、間違ってもそんなことは無い。食後のコーヒーか紅茶まで付いている。

ある知人はここのランチを食べた後「ああ、これで1日の楽しみが終わってしまった」とぼやいていた。まだ、夕食だってあるのに、と思ったが、たしかに自分で作る夕食は、逆立ちしたってこのランチより美味しくならないから、確かにその通りだ。

そんな美味しいカジュアルランチ、なんと日替わりは「ハンバーグのマッシュルームソースがけ」という食べたことのないものだった。もちろんそれを選んだ。

出てきて驚いた。
どうみたって、ブラウンマッシュルームだ。
ごろごろしている。

一口食べれば濃厚な味が口いっぱいに広がる。
トリフにも似たこの香りが移ったソースがたっぷりかかっている柔らかいハンバーグ、絶品だ。

このマッシュルーム、スーパーで5,6個入って売っている十勝マッシュに違いないと確信した。

十勝マッシュは、地元の醤油会社の子会社にあたる農業法人が作っている。
モノはいいけれど、マッシュルームだ。エノキやエリンギとは格が違う。
地元のスーパーの棚には、結構なお値段がついて冷蔵棚に陳列されている。
沢山使って料理したくても、ジャガイモのようにいくつも気軽に買える値段じゃない。

ただ、高くなる理由は良くわかる。マッシュルームだけでなく、キノコ類はたいてい長持ちしない。中でも、マッシュルームは傷が付いたらすぐに傷んでしまう。
人件費も燃料費も厳冬期の十勝で作っているんだから一袋100円で売れるわけがない。

だから時々、見切り品のところに値引きされた十勝マッシュのパックを見かけることがある。

傷み過ぎて、値引きの値すら無いような姿をさらしているのを見ると本当に悲しくなる。

美味しく食べる時期を逃したマッシュルーム、それすら見かけなくなるということは仕入しなくなった、ということだ。

地元で作っている美味しい食材だけど、都会でしか買えない。
日本全国の田舎で起こっている普通のことなのかもしれない。

店のマダムに帰りに聞いてみたら、やっぱり十勝マッシュだった。
マダムもスーパーで見切り品の十勝マッシュを見て何度も「可哀そう」と思ったそうな。

地元のレストランが地元の食材を定期的に、そして大量に使う料理を定番メニューにすれば、消費者だって地元食材の美味しさを知ることができる。

そうすれば、スーパーで朽ちて行く美味しい地元食材は減るのかもしれない。

そんな飲食店が増えれば、可哀そうなマッシュルームを見かけなくなるかもしれない。

「かもしれない」けど、そうなるといいな。

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彼の店は、生産者と直接取引もしていたようだ。この時は、型崩れしたマッシュルームを格安で仕入れたと話していた。

規格外となる野菜は、スーパーには並ばない。でも、その量は、生産する全体量の半分以上と言われている。でも、1個の値段が安くなれば生産者はやっていけない。

生産者が作ったものを高く売るには、加工が必要になる。技術が必要になる。
だから、全部が食べられる社会的仕組みを作るには、レストランや食堂は欠かせないだろう。

でも、同時にそれを支える消費者が必要になる。

ただ、目先の儲けだけを考えた今の社会に、そんな技術者も消費者も居ない。
でも、生産者の扱いが変わらなければ生産する人は消えて行く。

その先にあるものは、誰も生産しない社会だ。

鹿再び

シェフとマダム、一緒に働く人達にも優しかった。
必ずしも、それが報われるという訳ではない。でも、この時一緒に食べた若い女性は、就職した後も、パーティ等のヘルプで手伝いに来ていた。

若い大学生を、信頼できるウエイトレスに育てたのはシェフ達だ。彼女はそれに心から感謝していた。2度目の鹿は、そんな彼女と並んで食べた。

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2019年2月10日
前回のディナー、鹿が鴨になっても十二分に堪能したが、やはり鹿が味わいたい。だから、ドタキャンの友人とリベンジの計画をした。

彼女の予定に合わせてコースディナーを予約した5分後、彼女からショートメールが来た。

「インフルエンザになりました。家でしばらく引きこもります。」とのこと。

もう待てない。昨夜は、鹿肉の夢まで見た。
友人にはキャンセルしたことを連絡して、予約の日、一人で鹿を食べに行くことにした。

今回はどうしても赤ワインと一緒に食べたかったので歩いて店まで行った。歩いたことで、余分なカロリー摂取への罪悪感も減ったし、食べる準備は万端だ。

店に着いたら、カウンターにはもう一人、若い女性が飲んでいる。昔ここで何年かアルバイトをしていた方だそうな。シェフは「娘みたいなもんだ」と紹介してくれた。

オランジュでのアルバイトだ。若くたって口が肥えるにきまっている。まかないでどれだけ美味しいものを食べていたのは簡単に想像できる。ましてやシェフが「身内みたい」というほどだ。

美味しい物は分け合う。
それがシェフのモットーだからその恩恵は想像するより凄いと思う。
彼女曰く「ほとんど外食しなくなった」とのこと。

そりゃあそうだろう。ここの料理が外食するときの基準になってしまえば、どの店に食べに行っても絶望するしかない。

そんな彼女も私と同じく鹿を食べるらしい。二人でカウンターに並んでお喋りしながら待っていたら、アミューズが出てきた。

この絶品ムースを味わうだけで、ここに来たかいがあると思わされるものだ。
ニンジンとトマトの甘さは季節によって異なる。だから、いつも同じ味にはならない。
当然、夏の方がトマト風味を強く感じるが、どの時期に食べてもそのバランスは絶妙だ。

鹿の肉は、焼く前に見せてくれた。

ルビー色の固まりの美しさに目を見張る。

その後、一皿になって目の前に出た。食べる方も、今回は余裕がある。
肉質はすでに知っている。だから、味わう。かみしめる。

肉の柔らかさは変わらないけど、何かちょっと違う。

シェフに聞いてみると2回目だからソースを少し変えたらしい。
今回は、ジビエでは定番の「ねずの実」を使ったソースだそう。
このソースだと噛み締めた肉の後味に、野性の風味がほのかに感じられた。

前回は飲まなかった赤ワイン、やはり、料理にワインは必要だ。
肉の風味を一層強く引き立てる。

大きく切って、ステーキのような一切れを噛みながら目を瞑る。
言葉も無しにともかく味わう。今までイメージした鹿肉とはかけ離れた味だ。

デザートはフルーツグラタンだ。シェフ曰く、これも2回目だから、オレンジを使ったものを作ってみたとのこと。今回はバナナも入っているので食感も前回とかなり異なる。

2回、同じものを食べに行ったはずだった。

確かに同じ素材だし、同じ料理だった。
でも、何度思い出しても同じものを食べたと思えない。

これって危険な兆候だ。

3回目に鹿、食べに行ったらまた違う味で作ってくれるということ?

「多分、2月一杯は提供できると思う」とシェフは言う。
好奇心と食欲に負けてまた予約するのが先か、鹿肉のシーズンが終わるのが先か・・・。


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人を育てられるのは、人しかいない。最初からできる人など居ないから、プロの指摘を素直に聞けなければ成長なんてあり得ない。そんな時間の積み重ねが生むのは、新しいプロだけじゃあない。信頼関係だ。

育てる方も、育てられる方も、お互いが影響し合って、仲間になる。だからこそ一人でできないことも、できるようになる。

時給と有給の取りやすさだけで仕事を選ぶこと、間違っているとは思わないけど、その先に得られるものは何なんだろう。

貰った給与を消費した後に残るものは、何なんだろうか。

甘味の誘惑

シェフとよく食べ物の怖さを話した。

ファーストフードの値段の安さには理由がある。
食材となるブラジル産チキンが、何を食べているのか、どんな環境で育てられているのか、出荷を短縮するために何が与えられているのか。そんなことを知っていれば、外食はもちろん、スーパーで食材を購入する時だって値段以外の情報を確認するようになる。

シェフが店で使う素材は、信用できた。何故なら、シェフを信用していたから。

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2019年2月17日
東洋経済に「太る原因の7割は、遺伝で決まるが、残る3割は自分でコントロールできる」という記事があった。じゃあ、どうやって?となるとキーは「甘味」の量だそう。炭酸飲料と甘い間食を減らすことで、体重増加を予防した実験報告が一緒に載っていた。

でも、これは別に新しい話じゃあない。そもそも、砂糖の中毒性については、もう40年以上前から広く知られている話だ。依存性は、コカインより強い、という人もいる。違法か合法か、数的証明があろうがなかろうが事実は変わらない。

20世紀が始まる前に、一人の薬剤師が作ったコカ・コーラ、戦後70年瓶入りから缶で飲めるように手軽になった頃には砂糖の大量消費の時代に突入した。十勝だって1960年代に砂糖自由化になった今だってビートは基幹作物の一つだ。

ただ、もっと安く食べ物を作るためには砂糖は値段が高すぎる。そのために大企業はその300倍、800倍甘い人工甘味料を使って炭酸飲料を世界中に売りまくった。そもそも、カフェインと甘味だ。砂糖の中毒性とは比べ物にならないほど強い。

365日、毎朝ダイエットコークをコーヒー代わりに飲んでいた知り合いは10年以上それを止められなかったが、結局、乳がんで50にならずしてこの世を去った。

「儲ける」ことを「発展」と考えた経済活動の結果、世界は肥満と糖尿病が蔓延した。
医療費が国家を食いつぶすようになってようやく社会は「予防」なんて話をしているが、もう焼け石に水だ。
大量消費の文化を作り上げ、甘味中毒者、しかもその2世、3世まで生まれている以上すでに手遅れだろう。

人口甘味料が安いなら使われるのは炭酸水だけじゃない。安くて美味しいと感じるほとんどの食べ物には入っている。遺伝子組み換えのコーンシロップ、製造禁止にしたら暴動が起きるだろう。

だから、消費者が賢くなるしかない。

だから、買わない。

買う時は、原材料を読む。
料理は、信頼できるところで食べる。
そこには衛生観念はもちろんだが、それ以上に料理に対する考え方を重要視する。

ここのシェフは、何でも「お手軽な時代」に逆行し、手間をかけて料理する。

「料理人が「めんどくさい」と言って技術を使わなければ、素材と同じように腐ってゆくだけだよ。」と言い切る。

広告や写真に踊らされて「流行っているから食べてみたい」というのも理解できる。
でも、財布を開く前にちょっとだけ考えて欲しい。

買うことによって、どんな会社を支えるのか。
広告を信じて、新しい食べ物を買い続け、食べ続けた結果、自分の健康がどうなるか。

「買う」ということは、その考えを支えることだ。

お手軽なペットボトルや缶ジュースしかり、ファースとフードしかり、大企業を支えているのは消費者一人一人なのだから。

食に対しては影響力が薄い私の理性、この点だけはどんな食べ物を目の前にしても、食欲を制御できている。今のところは。

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シェフが居なくなって、彼の持っていた技術も消えてしまった。
でも、この「技術も使わないと腐る」という考えは、永遠に続いて欲しい。消費者が、お手軽と安さを選び続けた結果が、今の環境や健康問題に繋がっているのだから。

マイクロプラスチックや糖尿病のように、消費し続ける結果はいずれ自分に返ってくる。

グラタン?フルーツ?

技術を持っているシェフは沢山いると思う。でも、それを使って一皿に表現できるシェフはそんじゃあそこらにいる訳じゃああない。

どんな時も、美味しい料理を食べることはできる。でも、価値観が変わるような一皿に会った時、それを「コストパフォーマンス」だけで評価するなんて無意味じゃないだろうか。

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2019年2月17日
オランジュは、夜10時過ぎからバータイムをやっている。この時間帯、レストラン部分でのコースディナーは食べられないけど、「一杯飲みたい」時には立ち寄ることができる。
なので、結構遅くまで店が開いている。

もっとも、シェフは仕込みでいつも夜遅くまで店に居る。先日、確認したいことがあって、会社の忘年会後に立ち寄った。

その宴会は、デザートが出なかったから、ちょっぴり不満だった。

ちょうど気さくなマダムも居て話が弾んだ。
宴会の話の流れで「フルーツグラタン」という単語が出た。「グラタン」と「フルーツ」は、まったく味のイメージが付かない。

「あら、食べたことないの?」というとシェフが「3分でできるよ」とフォローする。
二人はあうんの呼吸で、私の好奇心を刺激する。

「いやあ、もう遅いし、シェフ疲れているだろうから」といったんは断った。
でもシェフは「さっきの宴会に出したばっかりだから、材料まだあるんだよね」なんて言われたら終わった。

理性は欲望に完全に負けた。

「では、頂きます」と言ったけど、まだ座れない。だって、グラタンだ。何を使っているのか物凄く興味がある。

「皿熱いからね」と言いながらバーナーで、グラタンらしい表面を焼いている。
その上にはソルベが乗っている。もちろんこれも、ここの手作りだ。熱さと冷たさのクリームハーモニー。見ているだけで食欲は暴走している。

「早く食べてね、溶けちゃうから」というけれど、すごく美しい。焦げ目の付いたとろっとしたクリームから、赤いイチゴがちらちら見えている。真ん中には、ソルベがドーンとある。下のクリームとの境目が少し解けて焦げ目に色を添えている。

一口すくって食べたのは、洋ナシだった。クリームの甘さがちょうどよい。
二口目は、ソルベとクリームとイチゴと一度に食べた。酸味と甘味のバランスが絶妙だ。
これはすごい。それに加えて熱さと冷たさ、クリームの舌ざわりの違い、を全部この一皿で楽しめる。

この後は記憶がない。

食べ終わる頃には、ソルベがどんどん溶けて、一部がクリームと一体した。これもまた残り少ないフルーツと食べるとちょっとまた違う味になる。

グラタンは冷まさないと食べられないけど、これは「冷まさないで食べるグラタン」だ。
シェフ曰く、グラタンとはフランス料理では「上から焼く」という意味があるそうな。

欲望には負けたけど、マカロニ以外で作るグラタンを味わった満足感は大きい。
たしかに、これはグラタンだ。

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シェフには、素敵なマダムが店をサポートしていた。
マダムは店を出す時「手伝わないよ」と言ったらしいが、マダムあっての店だった。
彼一人ではきっとできなかった。

料理には、必ず作る人がいる。映画も、音楽も、必ず作る人がいる。その周りに、その人達の情熱を支える人達がいる。

人生において、自分ひとりで出来ることは限られている。だから、他者と協力する術を学ぶ必要がある。そして、信頼関係を生むのは、自身の行動しかない。

価格だけ見て、消費する人間には理解できないかもしれないけど。

2020年4月2日木曜日

芋への愛が止まらない

シェフの店、ランチもやっていた。コースランチは激安だったから何故かを聞いたら、こう答えてくれた。「若い人には、いきなり値段の高いディナーは敷居が高いだろうから、まずはランチでコース料理での振る舞いとか、マナーを学べたらいいなと思ったから」そうな。
もちろん、そうやって味を知ったらディナーに来て欲しいと思っていたけど、若い人たちが「きちんと食事をすること」を学ぶ必要があると本気で思っていた。

そんなコースランチを友人達と食べながら話したことがこれ。

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2019年2月10日
仲間で食事をした時、ポテトの話で盛り上がった。
ジャガイモへの食欲が止められない友人が語るに「もうポテトにぞっこんLOVEです。」とのこと。

十勝で「ポテト」と言えば、ジャガイモだ。

昔、東京に住んでいたときスーパーで「ジャガイモ」と表示されて売られていたのに驚いたことがある。なぜなら、十勝じゃそんな表示はしない。
「男爵」とか「メークイン」とか「北あかり」とか、品種を表示して売っている。

今でこそ、グルメ雑誌が、ジャガイモの品種別でポテトサラダを作って比べることが記事になるが、当時、芋は「ジャガイモ」か「さつまいも」の違いがあるだけだった。
普通のスーパーで品種の違うジャガイモがいくつも売られているなんて、ジャガイモ畑を見たことも無い都会人には想像することもできなかったと思う。

十勝でも、田舎の人は「芋なんて買うものじゃない」と豪語する。

「あれは貰うもんだ」と。

農家が聞いたら怒るんじゃあないか、と思うが、それほど珍しい話じゃあない。食料自給量1000%を超える土地柄じゃあ、それを放言した人の周りもその意見にうなずくほど、知り合いにはジャガイモを作る農家が多い。

ジャガイモへの愛が止まらない友人は、発作的に「ポテトが食べたい」ということになるとマクドナルドに直行する。体がフライドポテトを求めるらしい。

「あんなに細いし、しゅるしゅる入るから、カロリーが多いわけない」とか、芸人みたいな言い訳している。

油を目いっぱい含んだ芋だ。そんな訳がない。

かつて「私の血は赤ワインでできている」と言った人がいたが、彼女曰く「私の体はポテトでできている」とのこと。

彼女の理性は、完全にポテトに追い出されている。

フライドポテト、今では知らないけど、専門店までできるほど一時ブームになっていた。
ハーブを投入した油で品種別の芋をフライにして、結構な値段で売っていた記憶がある。

そんな話をしながら、ポテト料理の話になった。

ベイクドポテト、ポテトグラタン、マッシュポテト、という話になり「じゃあ、ビシソワーズは?」と聞くと微妙とのこと。彼女の愛は、芋の姿が見えないとあまり湧きおこらないらしい。

たしかに、愛は相手が何者かがはっきりしないと感じない。芋でも、人間でも。
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シェフは生産者の人達ととても仲が良かったから、彼らから時々余った食材を貰っていた。もちろん、普段から買っているからそういう関係になれたと思う。でも、そもそも信頼関係とは付き合いの積み重ねでしか生まれない。

シェフが居ない今、積み重ねられるのは、思い出だけだ。

鳥肉いろいろ

この鴨は、本当に棚ぼただった。

このレストラン、コース料理は、値段だけが決まっていて、食材は好みを聞いて調理していた。もちろん、シェフは予約が入ればその時のベストの食材を準備していた。
でも、お客様に寄ってはお勧めしたものではなく、別のものを所望される時もある。
そうすると、準備していた素材は使わなくなる。

だから、他のお客様に回すことがあるが、この日、ラッキーなことに私の皿に回ってきた。

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2019年2月17日
友人とディナーに鹿を食べるために予約していた前日、相手からドタキャンの連絡。鹿のシーズンは終わりそうだし、どうしてもあの味をもう一度味わいたい。シェフに人数の予約変更を伝え、一人で食べに行くことにした。

オランジュのいいところは、本格フレンチレストランなのにカウンター席があることだ。二人席で「お一人様の食事」は敷居が高いが、ここは気兼ねなく「一人」でもフルコースを食べにくることができる。加えてその席は、シェフの解説付きだ。

夜遅いディナーだったが、他のお客様のコースがまだ終わっていなかった。鹿モードで店に入ったらシェフに「ちょっと話がある」と言われた。最初から「お肉のコース」を食べることは話していたので「今日は鴨にしない?」と聞かれた時は「えっ」と思った。

その鴨、お客様に出す予定だったけれど、その方は別のお肉を所望されたそう。「これ、前に話していた鴨?」と聞くと「そう」との回答。そりゃあ「それがいいです」と即答するしかない。

鴨はずっとジビエだと思っていた。冬になったら、薄く切って売られているものを好奇心で買って食べたこともある。固いしパサついてそれほど特別な肉には感じられなかった。スーパーで手に入るものと比べるのは失礼なのは十分わかっているが、鴨肉に対する私のイメージはそんな程度だった。

前回、そんなことをシェフに話したら「今度、シャラン鴨食べてみて」と言われた。
フランス産のシャラン鴨は「家禽」だとのこと。だから年中食べられるが、やはり冬がおいしいのでこの時期だけ仕入れているそう。

切り分ける前を見せてもらうと握りこぶし2つ分よりちょっと小さいくらいの固まりだ。部位は、胸肉だとのこと。これをどうやって一皿にするのか、まったくイメージがわかない。

で、前菜も終わっていよいよ鴨が出てきた。

薄くない。ステーキみたいな肉片だ。まず、その時点で頭の中にはてなマークが出た。「これが鴨?」鹿もそうだったが、ここで食事をすると自分の食材イメージをぶち壊される。

食べてみたら柔らかいけど弾力がある。鴨だと知らなければ「これは何の肉なのだろう」と思ってしまうほど、歯ごたえも風味もまろやかだ。皮の部分は甘くてパリパリしている。皮と肉の間の油を味わっている時「噛み応えが鶏肉に似ているなあ」と思ってはっとした。「鴨って、鳥だった」と。

このお肉、特別な方法で鳥を絞めるらしく量も流通もかなり少ないらしい。生産量もさることながら、肉の繊細さを知って美味しく調理できるシェフだって、コンビニ並みに居るわけじゃない。だから、少なくてちょうどいい。

食べる方だって「量」より「質」で満足できる方がいい。その方が、後々体重計の上で感じる後悔の量だって少なくて済むのだから。


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シェフのレストラン、常連さんが一人で食べにくることも少なくなかった。そういう人達は、彼の一皿を本当に味わって食べていた。

このレストランでは本物が味わえた。食材もシェフの技術も。

2020年4月1日水曜日

ポケットのメレンゲ

このブログ、公開した後店に寄ったら、シェフがもの凄く喜んでくれた。
「これ、俺が言いたいこと、まんまだよ」と。

それを聞いた私の喜びは、メガトン級だった。
だって、当の本人に言いたいことが伝わったんだから、これ以上の至福は無い。

他の人がどう思おうが関係ない。
本当に伝えたかった人に、その思いが伝わった。

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2019年1月27日
 先日、夜遅く、オランジュに寄った。もちろん、まだみんな働いており、宴会後のテーブルセッティングを直している。でも、中の雰囲気はほっとしている。お客様は皆さんすでにお帰りになっている。

ディナー前に寄る時の雰囲気とはまるで違う。開店前は、とてもぴりっとして、背筋がシャンとなる雰囲気だ。「戦闘前」という感じだろうか。

そんな「戦闘後」の空気を感じても、仕事の邪魔しないようにすぐ帰ろうと思ったが、「入っていきなよ」とシェフが言う。なので、ちょっとだけ立ち話をした。帰り際に呼び止められて、メレンゲをいくつか渡された。

以前にも食べたことがある。イベントで時々作っていた。今回も何かのイベントのために作ったから、いくつかおすそ分けしてくれた。

ペーパーナプキンに包みながら、メレンゲの素材についてシェフと話した。

メレンゲの材料は、卵白と砂糖だ。そして、卵白は食品業界では「あまりもの」だ。
たとえば、マヨネーズを作る会社が使う卵の量は半端ない。しかも卵黄しか使わない。だから、余る卵白は業務用材料として冷凍で売っている。しかもかなり安い。

だから「卵」を買わなくてもメレンゲはできる。

ある時期、シフォンケーキがブームになったことがある。このケーキもまた大量の卵白でできている。つまり、原価を安く抑えることができるから、沢山売れれば利益率は、ショートケーキの非じゃあない。しかも商品の値段も安い。「安いケーキ」だから消費者もつい買ってしまう。

冷凍卵白のメリットはそれだけじゃあない。卵を割って、卵黄と分ける手間も不要だ。計量だって簡単だ。

そんなことを「(ビジネスなら)そういう業務用材料を使うことも当然ですよねえ。」みたいなこと言ったらシェフも同意した。そして、ぼそっと言った。

「でもね、僕はまだいいわ。」

意味が解らず、聞き直した。

つまり、自分が作るものは「袋から出る卵白じゃなくて、卵の卵白」を使って作る、ということ。シェフとして、自分の仕事はレストランはもちろん、どんな時も「卵」を使う、という「主義」の意思表示だった。

でも、その口調にこんなニュアンスを感じた。

「業務用素材が手軽に手に入るこの「時代」を理解しているけど、利益だけ考えて割り切れる自分じゃないし、しょうがないよなあ。」

自分が納得ゆく素材でしか料理しない。頑固だ。でも、味と安全に関しては、絶対的な責任感をもって仕事をするプロだ。だから、彼の作るものはすべて、味わうことに没頭できる。

そんなシェフの考えは、仕事を効率と金額でしか考えず、目立つことで儲ける、というSNS時代には絶滅危惧種的なものだろう。でも、本質的な「美」がそこにある。

メレンゲは、作ったすぐより日数を置いた方が甘味はまろやかになるらしい。ポケットに入れた極上のメレンゲは3日後に食べた。目立つこと、効率、そして価格を「判断基準」にする外食産業の行き先に思いを寄せながら。

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彼が、私に聞いた。「このブログ、書くの時間がかかったろう?」と。
確かに、いつもより時間がかかった。何故なら彼を「時代遅れ」と傷つけたくなかったから。私が感じた彼なりの今の時代の「受け入れ感」を表現したかったから。

メレンゲを見る度、彼の喜んでいた顔が目に浮かぶ。

「こだわり」と「インスタント」

シェフの店のWEBページを作ってから、よく店に寄るようになった。
もっとも、ディナータイムの開店前、WEBの更新情報の確認だけだったけど。
でも、ディナーの予約が誰も居ない時は、コーヒーを飲みながらいろんな話をする時があった。それは、そんな時に出た話題の一つ。

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2019年1月26日
 シェフにテリーヌをどうやって作るのか聞いたことがある。物凄く手間がかかることを「そんなこと普通だ」みたいにして説明する内容を聞いて気が遠くなった。

何日もかけて準備してくれた一皿は、10分もかからずに食べてしまったけど、その味は3日ほど思い出しては、記憶を補強することになった。

もう死んでしまったけど、アメリカのある有名なレストランシェフが料理学校時代のことを書いたエッセイを読んだことがある。授業でブイヨンを作った時、インスタントのコンソメをこっそり足したら先生がすごく褒めてくれたそうな。それを読んで「人間の味覚なんてその程度だろうな」と思ったことがある。

たしかにここ数年のインスタントは、本当に優秀だと思う。プロの味を小さじ1杯で出してしまう。飲食店経営は、一番手っ取りばやく独立する方法でもあるから、修行しなくても店を持つことはできる。業務用調味料だって充実している。

私は、ほとんど外食しない。何故なら自分で作る方が絶対うまいから。新鮮な素材が安く手に入るこの土地なら、それほど手をかけなくてもたいていの食材はおいしい。
日々、そこそこにうまい物を食べていれば、外で金を払らって食事する機会には、食べてから後悔するようなものは食べたくない。1日に3回しか食べられないんだから。(体重計は、「それでも多いぞ」と現実を突きつけるが・・・)

タイやブラジルで何を食って育ったか判らない鳥をから揚げ用に処理したものなら、そりゃあ、安く売れるだろう。インスタントの調味料で下味はついているし、指定された通りにフライにすれば誰だって美味しいから揚げが作れる。

外食をする時「安さ」くて「うまい」を求めることは理解できる。でも、その「理由」を食べる前に考えて欲しい。そのから揚げは、どこからきているのか。何を食べて育ったのか。何を使っているから「おいしい」と感じられるのか。自分は「何故」美味しいと思っているのか。

グローバル化や、技術革新は、ITだけじゃない。食品添加物だって同じように進化している。でも、それを使った歴史はまた短い。食べ続けた結果がどうなるかなんて誰も判らない。手間をかける「こだわり」の一品が提供するのは、おいしさだけじゃない。

店から出る時、入ったことを後悔はしたくない。(体重計も激しく同意する。)外食する場所を選ぶことは、「値段」ではなく「体に入れるものを選ぶ」ことなのだから。

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彼の食材は、ほとんど地元の生産者から入手していた。もっとも、フランス産のフォアグラとか、彼の経験からだからこそ手に入る素材もあった。
ただ、どの素材の選び方もその処置の仕方も、美味しく食べてもらうため、どんな手間も惜しまなかった。皿の向こう側の人のことを考えて料理する人だった。

この土地の食材に惚れてこの地にレストランを開いて12年。生産者と消費者を繋げる活動も長年続けていたが、10年早すぎた。

私達は、ようやく彼の思想に追いつこうとしている。



「美しさ」と「美味しさ」

シェフのことはいろいろ思い出すけれど、何より思い出すのはその技術の高さだ。
彼は、仕事において「手を抜く」という概念を持っていなかったと思う。

ファーストフードが一般的になり、料理自体も簡便化が進み、時間や手間がかかる料理を作る人が居なくなった。
それは、同時に彼らを支えるようなパトロンが居なくなったということ。

アートもそうだが、理解者となるパトロンが居なければ、消えてしまう。
シェフは、そんな芸術肌の師匠の元で修行をしていた。その師匠が自費出版で出した本を貸してくれたので、そこから感動したことを書いたのがこれ。

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2019年1月20日
最近、日本のフランス料理の歴史について書いてある自費出版で出された本を読む機会があった。当時のメニューや写真が盛り込まれたすごい資料だ。

日本のフランス料理、明治開国時代から、本場フランスにひけをとらないほど、本格的なものを作るシェフ達がいた。「西の帝国、東のオリエンタル」と言われたらしく、当時のシェフ達の舞台は、ホテルレストランが主流だった。

残っている資料を見る限り、これらレストランが提供していた料理のレベルは、海外でブームになったような「日本食もどき」のようなものではなく、本場と比較しても引けを取らないものだったらしい。

そういう時代のメニューやレシピ、食材納品書までが東京大震災や大空襲を乗り越え、残っていたこと自体、奇跡だ。だって、鹿鳴館でどんなものが提供されていたか、が判るのだから。

そういう古い資料が発見され、現代のトップシェフ達が集まれば、当然「味を再現しよう」というプロジェクトが生まれる。そりゃあ、そうだ。私だってそんな機会があるのなら、是非食べてみたい。

本の中には、再現された料理の写真がいくつもあった。ソースも肉も「どーん」と主張している。昨今よく見る「ヌーベル・キュィジーヌ」とは対極にある重量感だ。
これなら、胃だって十分「食べたっ!」という気になる。

しかし、皿には彩の良い付け合わせと共に美しくデザインされて盛られている。
「インスタ映え」するような高級感を醸し出している。

ただ、これら、至極の技術と味が凝縮された一皿だ。
肉を覆うドゥミグラスソースなんて10日もかけて仕込んでいる。
(これも昔は、宮内庁調理場では使っていた「幻の技法」だ。)

フランス料理は、皿に「美しく盛られている」から「美味しく感じる」のか。
それとも「美味しい」から「美しく盛る」のか。

どっちかなんて解らないけど、ひとつだけ解ることがある。

本物の料理は、目を引くために「盛る」必要がない。

プロが作る極上の一皿はどれも美しい。

だから、食べる前に30秒でいい。
そのレイアウトや色合いの美しさを眺めて欲しい。
きっと、もっと美味しく感じられるから。

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フランス料理は一般的に「量が少ない」「コストパフォーマンスが悪い」とか、値段と比較して評価されがちだ。

でも、そこで提供されているのは1万円札じゃあない。
長年の技術と経験に裏打ちされた1皿である。
消費者がその価値を見出さなければ、作る人は消えて行く。

映画や音楽も同じ。ユーザ―が海賊版やコピー商品を「安いから」と消費し続ければ、良いものを作る人が消えて行く。

シェフが居なくなって、1度の食事に、何日も思い出して感動できるようなレストランが消えてしまった。