2020年4月29日水曜日

レストランが提供するもの

「食事」が「事」であり「文化」であるからこそ、レストランは格式を重んじる。腹を膨らませるだけの「食」とは違う。地元のラーメン屋とレストランの違いは価格だけではない。食事を提供する側も、提供される側も、それぞれの立場があり、そこでどう振る舞えるかがその人の教養レベルに寄る。しかし、食べログ信奉者にはこの違いがどうも判らないらしい。なので、これを書いた。

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2019年4月14日
西洋文化におけるある一定のクラス以上の家庭では、昔レストランデビューというものがあった。大体、それは16歳、アメリカなら、自動車の免許が取れて、デートが許される年齢だ。

貧しい家庭は、そもそもレストランなど行かない。値段もさることながら、そういう場所での振る舞い方を知らないからだ。

もちろん、そこには子供は入れない。どうしても、という時は金を積んで「個室」なら提供しているレストランもあるかもしれないが、極めて例外だ。大抵夫婦は「大人の食事」を楽しむためには、ベビーシッターを雇う。

つまり「レストランで食事ができる」というのは、親にも社会にも独立した「大人」であることを認められていること。レストランは、食事をするだけではなく、そういう意味を持った場所である。

それほど、食事の振る舞い(マナー)は重要視される。

一般家庭にでも感謝祭など親戚がたくさん集まる時には「子供席」とフォーマルテーブルは分かれている。
会話を含めて、食事の行動を身に着けていないと20歳を過ぎていても、フォーマルテーブルには座れない。

ある全寮制の学食では、毎週日曜日、ランチをフルコースで提供していた。正式なテーブルにおいての振る舞いを学ぶためだ。英語がどんなにできたって、まっとうな食事の振る舞いができなければ、ビジネスでは信頼を得られない。

この大学は、家庭事情のさまざまな現実を見据え、受け入れたすべての学生の日常すべてにおいて「教育する場」であり続けていた。

デートもそうだ。16歳を超えたら基本、親は夜の外出を許す。女性の場合、男性は玄関まで来てベルを押して、親はその相手を確認し、送り出す。(昨今は、クラクションを鳴らすだけらしいが・・・)

いつでも子供が「大人になる」のは、本人にも周りにも大きなステップだ。レストランは、その大きな社会的成長において大きな役割を担っていた。

しかし、ファーストフードがデートに使われるようになると「食事をすること」が重要視されなくなった。
日本においては、「ファミリーレストラン」という造語が「外食すること」の意味を変えた。

値段も手ごろで、敷居も低い場所なら、頻繁に利用する。そのような場所で「食べること」が普通になれば「外食すること」の意味が変わる。食事を準備する「面倒」を「金で解決する」場所になる。

これでは、「食」が「事」にならない。ただの「餌」である。
金を払っても払わなくても、ただ与えられるだけ。

その延長で「美味しいもの」を「誰かのコメント」に頼んで選ぶから、どの飲食店も子連れで入れると思う人たちがたくさんいる。企業は儲かるなら、何でもやる。

安くするために「業務用の食べられるもの」の開発も含めて。

今や、ファミリー居酒屋まで出てきている。夜遅く、子供を連れて居酒屋に行く、ということを金儲けが好きな「大人」が可能にした。

でも、連れて行かれる子供達は、そこで何を学ぶだろうか。

「自分が行きたいから」と、子供を連れ歩くことを否定するつもりは無い。しかし、連れて行かれる3歳や5歳の子供だって、常に大人を見て学習しているのだ。しかも、スポンジ並みの吸収力で。

自分の親だけではない。そこに酒を飲みにくる大人達すべてだ。

「子供に隠し事はしない」と胸を張る親も居るだろう。でも、その場所で、親を含めた大人の行動を見て子供は学ぶのだ。本当に隠さなくていいのか。

酒を飲んで、羽目を外して猥談を連発し、セクハラもどきの言動をして大騒ぎするおじさん達の姿を見せることで、どんな教育を施しているか、考えてみて欲しい。

出てくる食べ物より、興味深い振る舞いをしている大人がたくさんいる場所で、親の目が緩んでいる場所で、彼らが見聞きして学ぶことは・・・・神のみぞ知る。

子供達が学校で、そんな大人の真似しても、誰がそれを叱れるのだろう。

そんな子供達が大人になって、本当に国際社会で認められる日本人として行動できるのか。

学校や保育園が、子供にとって社会性を学ぶ場所なら、大人にも大人の場所がある。
だから、待って欲しい。子供はどんな子も社会が「守るべき宝物」だから。

親が子供と「飲むこと」を夢みるなら、その子が5歳の時にやる必要なんてないだろう。
彼らが社会の仲間入りをする日は、あっと言う間にやってくるのだから。

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何事にも「時」がある。聖書にもそう書いてある。その「時」をわきまえることを子供に教えるのは、大人しかいない。大人とは、行動に責任を持つこと。会話を含めてその振る舞いを通して、社会の一員であることを証明できること。レストランは、そういう大人になる訓練ができる場所である。そう思いたい。

毎日の「食事」が「餌」になった時、文化的生活を失った時、そこで作られる人間と家畜にどんな違いがあるんだろうか。

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