2020年3月30日月曜日

「カジュアル」と「フォーマル」

女性がドレスアップすると印象が変わる。
料理もドレスアップすることで、味の変化が楽しめる。
そんなことを教えてくれたのはこの一皿だった。

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2018年12月09日
先日、コースディナーを食べた時、HPの撮影の時に使ったフォアグラのテリーヌが出た。しかも、ドレスアップされている。

黒っぽいソースが散らされて、おもいっきり正装したテリーヌだ。
シンプルなテリーヌも感動的だったが、このおめかししたテリーヌもまた極上な一品だった。

このソース、バルサミコ酢(もちろんそれだけじゃあない)を使っているらしい。
テリーヌにはイチジクが使われているので、その甘味にソースの酸味が口の中で絡む。
添えられているほんの少しのグリーン(サラダ野菜)を一緒に食べれば、ちょっと軽めな味になった。

テリーヌだけでも、3,4種類の味が楽しめる逸品なのに、ソースあり、付け合わせあり、だと、一皿を食べ終わるまで、いくつもの味を楽しめた。

その一皿がオードブルに出てきた時、私は感動で一瞬、声が出なかった。
「恍惚のテリーヌ、再び」なのだから。でも、一緒に来た友人はまだこの味を知らない。

しばらく会わなかったので、お互い話が止まらなかった。でも、私が止まった。
しばらくその皿の美しさを眺めている間も、友人は話している。

そして、お互い一口食べて、無言になった。
それから、たっぷり3分は何も話さなかったと思う。

そりゃあそうだ。単純に、味わうことに忙しくて頭なんて働かない。私はまだ余裕があった。2回目だもん。シェフにフォーマル版で使っているソースの話とかを聞きながら味わっていた。

シェフとの会話もまた素敵な料理の香辛料だ。

でも、その間、友人はずっと無言だった。

しばらくして息を吐きながら「これ、美味しい」と一言。

ファッションと違って、レストランのカジュアルとフォーマルの違いなんて、楽しみ方の違いでしかない。どんな形で提供されても、美味しさに変わりない。

そして、その一皿から与えられる感動は、食べる度に新鮮だ。

増えてゆくのは、食べたい欲望と体重だけ。だめだ、理性を働かせないと・・・・。


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テリーヌは作るのが大変である。一切れだけ作れないし、高価な食材が必要だし、ある程度お客様数が期待できないと儲けに繋がらない。

よく「お客様が料理人を育てる」と言われるが、本当にそう思う。技術は使ってこそ磨かれる。でも、作る機会がなければ上達する訳がない。

家庭でも、レストランでも、お互いに「評価」するんじゃなくて「感謝」すれば、きっと世界は少し良くなるじゃあないだろうか。

「本物」の価値

シェフのコース料理に感動して同僚に話した時、「コース料理は高すぎる」と言われて考えたことがこれ。人が何に金を出すかはそれぞれだけど、共通することがある。

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2019年1月6日
フレンチのコースディナーは「高い」という友人がいる。そんな友人は、アイドルのコンサートに万単位のお金を払うことを当然と考える。

本物を見られるのだから、チケットが高くて当然、というのがその友人の弁だ。

「本物」と出会うためにその対価を払う。

これは、フレンチのコースディナーだって同じじゃあないだろうか。
オランジュのように本格的なレストランでコースを食べるということは、プロの提供する「本物」に会うということだ。

フレンチのコースディナー、1万から2万円。ワインをつければもっとかかる。(オランジュは若干安めだが)

アイドルのコンサートに気分を盛り上げるためにネオンライトや団扇などのグッズが必須なら、ワイン(好みはあるが)もまたコースディナーの必需品。
そう考えればディナー1回が「それなりの値段」になって当然だろう。

何年もの経験をつんだシェフのコースディナーを食べること。
それはシンフォニーを聞くことに似ている。

コースを通してストーリーがある。
アミューズからメインに行くまでにそれぞれの一皿に味わいがある。
そしてメイン。サビの部分だ。その味は、繰り返し思い出される体験になる。
そしてデザート、この時間が終わることを惜しみながら甘い一皿を楽しむ。

「音楽」が「音」を「楽しむ」なら、これは「食楽」だ。

メインだけ食べるなんて、「サビ」の部分だけを聞くみたいなものだろう。
それも悪くないけど満足には程遠い。

ただ「フレンチのコースディナー」を「食べる」ことなら、値段は重要だろう。
食べる量が少ないなら「安くなるかも」という発想が出るのも理解はできる。

でも、シェフの長年の経験や、高度な技術は減らすことができない。

まあ、アイドルのコンサートも、プロのシェフが提供するコースディナーも「本物」を堪能できる時間であることは間違いない。
どちらも、そう頻繁には行けないけど・・・。


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食いしん坊には、何万円かけても「本物に会いたい」と思うほどのアイドルは居ない。
でも、人生にそんな「ワクワクする瞬間」があれば、きっと退屈な毎日にも耐えられるのだろう。

何に使うにしても、その瞬間に幸せを感じるならそれは「人生の」必要経費じゃあないんだろうか。


冒険と勇気

シェフの舌を絶対的に信じていた。

だから、シェフが作る料理を信じていた。シェフが使う素材を信じていた。
それを試してみないではいられなかった。
その一つがこれ。

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2019年2月10日
コースディナーでシェフが「白子食べられますか?」と聞いてきた。
一瞬返事に詰まった。白子、かなり苦手だったから。

自分からは絶対に買わない。鍋に入っていても絶対に箸をつけない。
どうしても美味しいと思えない。

でも、シェフが使う「白子」だ。シェフが調理する「白子」だ。
だから「大丈夫です」と返事をしてしまった。

そうしたら、リゾットの上にちょこんと乗った白子が出てきた。
表面はこんがり焦げている。

でも、白子だ。本当にうまいのだろうか。

勇気を出してリゾットといっしょに口に入れた。
魚介の風味とキノコの風味が混じり、舌にとろけるような感触がある。
この白子がなくても十分においしいリゾットだけど、この白子がどれだけ味にアクセントを加えているかは、食べ比べると明白だ。

記憶にある臭みなどは皆無。風味と滑らかさに舌の記憶が置き換わる。
「ぬるっ」の記憶が「とろり」となってゆく。

新しい体験をすることは、勇気がいるけど、こういう体験が続くと考えさせられる。
人は、どれだけ先入観のために感動するチャンスを失っているのだろうか。
勇気を出して苦手なものも食べるだけで、新しい自分に出会える。

こんな価値観を逆転するような体験は、食べた食材が忘れがたいのはもちろんだけど、それを提供してくれたシェフだって記憶に刻まれる。

結局、レストランはただ食べるだけじゃなくて新しい「自分」を含めた「人」と出会う場所なんだなあ。

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こういうことがあるから、レストランを「コストパフォーマンス」で評価する人達の言葉は全く理解できない。
ミシュランや食べログ、いろいろな「評価」が他者が作った料理を裁断する。それを信じるのは人それぞれだが、その「評価する料理」を食べた人が得られるのは一体なんだろうか。

少なくても、人生に変化を与える一皿じゃあないことは間違いないと思う。

上品な「ジビエ」

冬の数カ月だけ、シェフは知り合いから鹿肉を手に入れて一皿にしていた。
それまでも、鹿肉を食べたことはあるし、地元にいればそれほど珍しいものでもない。
それでも、シェフが「美味しい」と言う「鹿肉」なのでコースを食べに行った。
これは、そんな鹿肉を食べた後に書いたもの。

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2019年2月03日

「ジビエ」は「野性味があふれる個性ある味」というのが大半の人が持っているイメージだと思う。

北海道の田舎で育てば、鹿の肉を食べる経験だって少なくない。ただ、そこから学んだことは「鹿肉は固い」ということだ。この独特の匂いのする固い肉を「ジビエ」と呼ばれていることを知ったのは、それを最後に口にしてからかなりの年月が経っていたと思う。

だから、シェフとの会話で「ジビエのシーズン」だから「とても美味しい鹿肉が入った」話を聞いた時も、それほど食欲は刺激されなかった。でも、鹿肉大好きな友人がいるのである夜、一緒にコースディナーを食べに行った。

素晴らしいコースのメインに出た。鹿肉だ。大きなひと塊だ。

鹿肉が固いのは知っている。
だからスライスしようとナイフを肉に当てて力をいれたら、驚いた。

「やわっ」という感触。

「これが鹿肉?」という疑問しか頭に浮かばない。
スライスしようとすると赤身の肉がふるふるゆれる。

しかも、お肉には獣臭さも「ガツンとくる野性味」も何もない。油分がほとんどないから「霜降り」の真逆だ。赤身だけのしっかりとした肉。口に入れればほんのり肉の「風味」が広がってゆく。「鹿」と聞いていなければ「これ、なんのお肉?」と聞いていただろう。

それほど上品な味だ。

シェフ曰く、ハンターが仕留めた後の処理を知っているかどうか、で肉質が決まるとのこと。それに加えて、肉の処理や焼き方を知る彼だからこそ、この柔らかい「ジビエの一皿」になる。

この一皿を食べて、初めて「ジビエ」という言葉の「特別感」を理解したような気がする。



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この一皿を食べた時のショックは、食べ終わってからも続いた。
ともかく、この柔らかい肉が「鹿」とは信じられなかったから。

アーティストもそうだが、有名になるのはほとんど人生の後半だ。
何故なら、油絵でも彫刻でも、表現の技術が身に着くはそれほど時間がかかるから。
ピカソが天才と言われるのは、その技術が16歳ですでに確立されていたから。
情熱と技術が同時に得られるタイミングなんてほとんどありえない。天才とは神がそれを与えたアーティストだと思う。

彼の調理技術は、多彩な経験に裏付けされていた。だからこそ、至極の一皿を作り出せていたのだ。
これからも鹿肉を食べることがきっとある。でも、これを超える一皿に出会えるとは思えない。

2020年3月26日木曜日

コース料理の楽しみ方

クリスマスを前に、コースメニューの在り方をシェフと話していた。
コースの内容をメニューで詳しく説明してしまうと、その食材が高くても準備する必要がある。

お客様が食べたいものは、シェフが作る「美味しい料理」であることを伝えたくてこのブログを書いた。

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2018年11月20日
私の母が作る料理は、14種類程度しかない。
子供から高校まで、この14種類のどれかが食卓に上がっていた。
どれひとつ、夕食が待ち遠しくなるような味ではなかった。
こんな食生活だったから、食事の時間が楽しみだったことがない。

しかし、高校の頃、チキンの酒蒸しが、15種類目にして登場した。
それが、予告なく夕食に出た。
母は、圧力鍋を買ったから、付帯していたレシピ本をみて作ったらしい。

その時の美味しさと感動は今でも覚えている。

情報が無いからこそ与えられる感動があることを、その時に知った。
情報が溢れている今の時代、WEBでメニューの中身が「判るから」
その店にゆく、という人も多いだろう。

でも、私はフレンチのコースならメニューの中身が「判らない」方がいい。

高いコース料理を食べるならたしかに、苦手なものは食べたくない。
でも、それは同時に新しい味や感動に出会うチャンスを放棄することになる。

知っている味を食べるのは確かに安心するけど、
知らない方がワクワク、ドキドキする時間が過ごせる。

安心な「食事」は自分で作る夕食でいい。

だから、コースを食べるなら、安心より「発見」や「感動」したい。
だから、驚くのは値段以外、大歓迎だ。



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シェフも同意してくれて、コース料理に細かい説明をすることを止めた。
コース内容と価格を変えたコースを3つほど作った。

結局のところ、お客様はシェフの料理を食べに来ていたから、何の問題も起きなかった。

レストランでコース料理を食べるのは、確かに安くない。
でも、その料理を作る人を信じているからこそ、そのレストランに行くのだろう。

だから、食べログのコメントのように、コスト効率だけでレストランの料理を評価する仕組みに対して、違和感を覚える。

もっとも、彼のレストランが無くなった今、わざわざ行きたいと思うレストランもほとんど無いけれど。

フォアグラと恍惚感

これは、12月向けの撮影をした時に書いたもの。
クリスマスシーズンのために、HPも華やかなものにしようということでリボンなどを使ってみたが、シェフの料理に必要なのは料理だけだった。

このブログはその撮影の後に食べた感想。

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2018年12月01日

人生において、何度かフォアグラを食べたことがある。
たいていはねっとりしてそれほど「食べたい」という欲望がわく一品ではなかった。

ただし、2回だけそれを覆す体験があった。

1回目は、東京広尾のひらまつで食べたフォアグラ。
これはほとんど加工されていなかったけど、口に含んだ瞬間
その舌触りと風味のショックで気が遠くなった。

2回めは、ここオランジュのフォアグラを使ったテリーヌ。
こちらはフォアグラそのものの美味しさはもちろん
組み合わせる素材とのバランスが絶妙だ。

これ、ある時シェフから「はい」と出された。
今年のクリスマスコースディナーCで出そうと考えているとのこと。
断面をみて「フォアグラ」が入っているのはすぐわかった。
美しい一皿、とは思ったがそれほど食欲は刺激されなかった。
「おいしいフォアグラ」なんて絶滅危惧種みたいに出会えないと思っていたから。

その時はまだこの一皿の威力を知らなかった。

で、一口食べたら、頭の中でハレルヤコーラスが聞こえた。
「ソロ」のフォアグラに感動したことがあっても
「ハーモニー」のフォアグラに感動したことはない。

作り方を聞くと、ものすごく手間がかかっている。
使っている食材を選ぶことも、味のバランスを考えることも、
テリーヌを作る技術もすべて凝縮されたプロの一皿。

一口食べては、口の中でその素材のハーモニーを楽しむ。
皿が空になった後は、恍惚感がしばらく続いた。
シェフが何か話していたけれど何一つ覚えてない。

舌の感動は3日続いた。

一緒に食べる人がいればなんでも「美味しい」というのは事実だ。
でも、一緒に食べる人が居なくても「美味しい」一皿は、確かに存在する。



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彼は、このテリーヌを作るのに何日もかかると話してくれた。
素材のフォアグラだってお金を払えば手に入るという訳ではない。
それを扱う技術だって、誰でもできることではない。

すべての素材や技術、そして料理への情熱がすべて料理人に集まらないとこんな料理は食べることはできない。

仕事が「効率化」と「時給」だけで語られる21世紀に、こんな料理を作ってくれる料理人は育つのだろうか。



エンドレスティラミス

彼のお店は、奥さんや常連のバイトさんがとても気が利いたサービスをしていた。
常連さんが多かったのは、シェフを始め、働いていた人達が醸し出す雰囲気が居心地を良くさせていたと思う。

特に、ワイン会は常連さんが多かったから料理にも気合が入っていた。
これはその時に出たデザートの話。

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2018年11月15日
シェフは「イタリアンレストランじゃあないからパスタは無し」と言ってるのを
聞いたことがあるが、イタリアンデザートの代表、ティラミスは作る。
しかも、パーティのようなバイキングではそれを「バット」で出す。

これが麻薬的な味だ。止められない。
これが出たら理性を全開にする必要がある。
(それでも足りないかも)

デザートという位置づけであるにも関わらず、一口食べたら
食欲は子供ののように「もっと!もっと!」と叫び続ける。
胃だって、それに協力する。

本物のマスカルポーネチーズを使った甘さを抑えた軽めのティラミス。
一皿よそって食べた後、知らないうちに消えている。
残るのは口の中に広がるチーズの風味だけ。

バイキング形式というのがそもそも問題だ。
「一皿いくら」なら、理性が食欲に勝る。
うんと甘いならそれで十分満足する。
でも、甘みよりチーズのコクが口に広がってしまえば
「もう一皿!」と食欲が吠える。

今回も、理性を全開にし、それを止める努力はした。
でも、それは無駄だった。
知らないうちに、皿にティラミスが乗っていた。
しかも、コーヒーまでついて。

オランジュの店員さん、気が利くにも程があるから。



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彼が使うマスカルポーネチーズを見たことがあったが、ラベルが雪印でなかったことは
間違いない。

そんなティラミスを前にしたら「理性」なんてたんぽぽの綿毛程度の重さしかないね。

ボジョレーってこんなに美味しかったっけ?

彼のレストランでは、定期的にワイン会を実施していた。
飲めない食いしん坊だが、味のバリエーションを楽しむのは大好き。
だから、ワイン会にも数回参加したが、これが最初の時の感想。

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2018年11月15日
先日、オランジュさんでボジョレー・ヌーボーを味わう機会があった。
何年も前のブームだった時、飲んだことがあったけどそれほど特別な個性がある飲み物だと思えなかった。
しかし、それは「選択できる人」が選択した場合、全く違う。
今回飲んで「こんなに風味が個性的な飲み物だっけ?」と驚いた。
製造方法がワインとは異なるため、飲み物としては別物である。
そんなことは、知識としても、過去の経験からも知ってはいたが「風味の個性」がこれほど独特になるとは知らなかった。
ブームによって、コンビニエンスストアで買えるほどお手軽に飲めるボジョレー。
でも、オランジュが提供するボジョレーと共通するのは名称だけだ。
それを10種類以上集めて飲み比べるなんて、ずいぶん贅沢。
しかも、シェフの料理と一緒に味わうのだから、毎年リピート参加者が多いのも当然。

この体験で、私のボジョレーに対するイメージは「グレー」から「レインボー」になってしまった。

全種類制覇できるほど飲める人たちが本当に羨ましい。



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来ている人達は、ほとんどが常連だった。彼らは「誰がワインを選ぶか」を良く知っているから
毎回参加しているらしい。
出てくる本数を全部試した後、好みのものをもう一度飲んでいた。

酒が飲めない体質を残念に思ったことはないが、この時ばかりは彼らを横目に見ながら自身の体質を恨んだ。

これからもきっと毎年ボジョレーのシーズンになる度に思い出すだろう。
至福の味と一緒にこの悔しい思いも。





食べる楽しみは味だけじゃあない

昨年天国に行ってしまったシェフのレストラン。
彼にHPのアドバイスをしているうちに自分がサイトを作る羽目になってしまった。
でも、そのおかげでいろいろなことを学ばせてもらった。そして彼からもらったものはお計り知れない。
そのサイトに最初に書いたブログがこれ。
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2018年11月03日

オランジュの一皿は、ランチプレートでもアラカルトでも感動的においしいけれど、それだけじゃない。こういう一皿が目の前に出てくると、食べる前にしばらく見つめてしまう。

技術もさることながら、組み合わせの絶妙さに目は感動しながらも、胃を満足させるために食べ無ければならない。崩したくなくて、そっと口に運ぶ。かみしめれば、バランスの良い味が口いっぱいに広がる。

シェフは、野菜や魚介類の扱い方が得意だ。旬の素材は何でも使うけれど、食いしん坊の私がいつも感動するのは野菜の美味しさ。目利きの仕入れだから美味しくて当たり前だが、そのおいしさをより引き立てるのは、シェフが作るドレッシングやソース。

そんな一品が一枚の絵のように目の前に出てくれば、カメラが無くても脳裏と舌に記憶されてしまう。

カジュアルディナーで、自分にご褒美、たまにはいいかも。


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こんな風に、毎月彼の料理を撮影した。サイトのメンテナンス費用は、撮影後に料理を食べさせてもらうことで合意した。だから、毎月の撮影が本当に楽しみだった。

彼は本当にアーティストだった。もう彼との時間は過ごせないけど、ひとつひとつの思い出は私の心の宝箱に沢山入っている。そしてこのブログにも残してゆきたい。