2021年4月29日木曜日

調理師免許はとれたけど

 1年近く更新していなかった。この1年怒涛の1年だった。

桂むき、どれだけ練習しても長くむくことは出来なかった。期末テストは、実地試験が毎回すれすれにパスしたし(学科は大した問題がない)学内コンクールのために、何度も同じ料理を作って練習した。でも、あまり料理が上手になったと思えない。

食育インストラクターの資格も取ったし、とりあえず卒業した。

調理師免許も取れた。でも、調理の仕事に就くのは無理だ。

何故なら、労基法違反の求人がほとんど。さすがにそういう会社に応募する気がしなかった。でも、ハローワークに通い紹介状をもらって正社員に応募するも全部だめだった。

「まあ、いいか」と思ってた。人生、拾う神もいるから。

そんなことでひょんな縁で、今またITの仕事をしている。面白いことに、食べ物屋のWEB更新、HP作成とか、食べ物に関わる仕事だ。

今、ある会社のHPを立ち上げようとしているのだけれど、まあ、そこがひどかった。

担当のIT会社は、毎月5000円請求し何一つしなかった。サポートが停止したフラッシュを使って作っていたHPだったから見事に真っ黒。何も更新せずに5年間、存在確認のためだけにあったHP、サーバー使用料で毎月5000円、取られていることも意識していなかったらしい。年間6万、30万円。まあ、こういう会社が100件もあればIT会社は何もしないで食べてゆける。

だから、新しいドメインを取ってグーグルワークスで作ることにした。年間、2000円弱。今や、HPは無料でも作れる。ドメインの接続に年間1000円ほどかかるけど。

止めると言ったら、電話がかかってきたそうな。5年間、請求書しか送らなかったのに。


そんな訳で、食べ物の仕事は続く。



2020年5月16日土曜日

失敗の連続 かつらむき編

大根のかつらむきが期末の実地テストだ。まるでできない。そもそも、手が動かない。先生から「こうやるんだよ」と言われ頭ではちゃんと理解している。でも、体が思ったように動かない。

かつらむきとは、大根を円柱にし、その外側を薄くむいてゆく野菜の切り方の一種だ。和食においては基本技術らしい。これって、フィギィアスケートの初心者にダブルアクセルジャンプをやってみろ、と言われているみたいなもんだ。

前に立つクラスメートは、すでに40センチ以上薄くつながってむいている。家でかなり練習したそうだ。それにしてもすごい。向こう側が透けて見えるほど薄くなっている。

手元をみれば、切れ切れの長方形がまな板の上に散乱している。

なので、私も大根を買って練習している。もちろん、出来上がるのは、長さは切れ切れ、厚さはまちまちのかつらむきだ。ITの作業なら3時間も4時間も集中力は切れないが、慣れない包丁と格闘しながら練習できるのは、30分が限界だ。手の甲羅は痛くなり指はつり始める。カットはうまくゆかず、大根はいびつになり泣きそうになる。

そもそも、先生曰く「力で切ろうとするな。力を入れなくても刃と大根をコントロールすることでできるよ」とおっしゃる。

大体、ぶち切りになった大根を何本も食べられるわけがない。だから、1本分の練習が終わったところでその残骸を料理する。

厚く切った皮は、ゴボウと人参を合わせてきんぴらに。失敗したかつらむきは、豚肉とゴボウや人参を巻いて煮物に。真ん中の芯の残りは、3本分集めて乱切りにしてぶり大根にした。

これが、学校が休校の間3回続いた。毎回、きんぴらも巻物煮物も毎回味が違う。中に巻く材料や、ゴボウの量で同じ料理でも違った味が楽しめる。

だから、分かった。どの料理でも包丁の使い方が基本であるということ。レシピなんぞ目安程度しかない。

期末テストまで後2か月。後は練習あるのみ。薄く切れるようになれば生で食べる料理も作れる。そうなるといいけどそれまでは、煮物ときんぴらの日々が続きそうだ。



失敗の連続 蒸しパン編

学生に戻り、仕事のように思ったようにならない日々が続いている。

まず、手が動かない。モノづくりが何より好きだったのに、ITの世界で仕事をするようになって、手で触るモノづくりをほとんどしなくなってかなりの時間が経った。
システムや定型フォームを作ることは確かにモノづくりだったが、どれも手で触れるわけじゃない。

実際、体で覚えることの難しさは年齢を経た今、ひしひしと感じている。

今、蒸しパンを作って失敗した。膨らまないうえ、べちゃべちゃになった18個の蒸しパンを目の前にして唖然とするしかない。理由は簡単だ。蓋に布巾をかけるのを忘れたから。
水分が蓋からパンに落ちた。そりゃあ、べちゃべちゃになるのは当然だろう。

型から外しながら、むなしくなる。食べてみれば味はいい。ねっちゃりして、餅菓子みたいだが食べられないことはない。とは言っても人様に見せられるもんじゃあない。ましてや食べてもらうなど、ありえない。

でも、最初は全く理解できなかった。
レシピ通りに作った種も適切だった。しかも蒸し器に入れて4分の時にチェックした時はきちんと膨れていたのだから。

システムなら、プログラムした通りしか動かない。動かない時は止まるから、そもそも結果は「動かない」だ。

でも、体で覚えるべきたくさんの事は、失敗して学んで行く。こういう「体で覚える職業の人達」、例えば料理人は良く分かっている。アスリートもそうだろう。だから、失敗することを当然だと思っている。

仕事なら、同じ失敗を2度やれば、どやされるが初心者が失敗すれば「はい、やり直し」と言われるだけだろう。

失敗して、人生終わった訳じゃあない。何度もやり直して、上手になってゆく。当たり前のことだけど自分に言い聞かせるいい機会になった。

蒸しパン、今度は人様が食べられるものになってくれるといいなあ。

2020年4月29日水曜日

「間違える」ことは肯定できない

障害の有る無しで人を区別することは間違っている、と心の底から信じている。そんな時に読んだ記事に反応して書いたもの。
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2019年4月22日
いろいろなレストランがあっていいと思うけど、その中で最近聞いた「注文を間違える料理店」というニュースを聞いた時、何となく嫌な気分になった。

こちらのレストラン、認知症の方々が働いているらしく、注文を「間違うことがある」らしい。だから、それも「ま、いっか」と楽しんでというコンセプトのレストランとのこと。

その取り組み自体は素晴らしいけれど、こういうニュースを見るといつも思う。何故「彼ら」を特別扱いするのだろうか、と。

条件付きで「「間違えること」を肯定すること」は、間違っている。

認知症であろうが、なかろうが、仕事をするのならきちんとすべきだ。
間違って「お金を貰える仕事」などない。仕事とはそういうもの。
コンセプトは理解できるが、このネーミングはいただけない。

ただ、どんな人だって社会で必要とされる。それは、認知症だろうか、なんだろうが関係ない。「大学卒」というような条件付きの「必要性」など存在しない。

日本においては未だ教育だって「支援学級」と「普通学級」と分けているが、イタリアには90年代から「特殊学級」という考え方すら存在しない。

英語だって今や「ハンディキャップ」はもちろん「ディスエイブル(「できない」という意味)」すら使わない。どんな人もすべて「ピープル(人々)」だ。違いの種類はその後に「with」つけて説明する。

彼らは私達と同じように社会に生きる「人」であり彼らを表現するための「特別な言葉」は不要だ。

このレストランのネーミングに感じるのは「間違ってもいい認知症の人達」と「それを受け入れる大らかな健常者」という区別だ。この区別意識が日本を世界の常識から大きく遅らせている。

彼らをプロとして雇用するのなら、彼らのできる範囲で「正しくやる」ことを求めるべきだ。その上で、私たちが変わればいい。

レストランにおいて「注文通りに料理が出てくることが当然」という考えを止める。

「注文できない料理店」でいいじゃないか。でなければ「ロシアンルーレットレストラン」でもいい。注文したものが食べられないことを肯定するにしても、彼らを特別視しないネーミングがあるだろう。

認知症だけではない。肉体的に、精神的に問題を抱えている人達に対して、表記をどう変えたって事実は変わらない。

確かに、彼らには出来ないことがある。でも、できることだって沢山ある。このレストランだって、みんなちゃんとお客様のところまで、料理を持って行けるのだから。

値段が全部同じで、選ばなくてもいろんなものが食べられるなら、その仕組みを好む人も出てくるだろう。メニューを選んでから「切らしています」と言われるより、ずっとましだ。

どのレストランでも、間違う時はある。それを、食べてもらった方が助かる時がある。
客に寛容になって欲しいのは、別にこの料理店だけじゃないでしょうに。
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言葉ひとつで人はいろいろな判断をする。だからこそ、こういう店の名前や、引いては障害という言葉を人に対して使うことは、間違っている。

障害があるからか間違っていい、なんてことはあり得ないだろう。それは一見寛容に見えるけれど、ひっくり返せば障害を持つ人と自分は「違う」と差別しているだけだ。

どんな障害を持っていても、持っていなくても、人と付き合うなら大切なことは一つしかない。その人をありのままに受け入れること。仲間として受け入れること。その人の「世話」をする必要などない。その人の力を信じて、任せてみればいい。

「我慢してあげている健常者」である自身に陶酔し「私はいい人」という幻想から目を覚ましてほしい。

彼らに「これしかできない」という枠を作ることで安心しているのは、健常者が作った社会であるという事実に早く気が付いてほしい。


レストランが提供するもの

「食事」が「事」であり「文化」であるからこそ、レストランは格式を重んじる。腹を膨らませるだけの「食」とは違う。地元のラーメン屋とレストランの違いは価格だけではない。食事を提供する側も、提供される側も、それぞれの立場があり、そこでどう振る舞えるかがその人の教養レベルに寄る。しかし、食べログ信奉者にはこの違いがどうも判らないらしい。なので、これを書いた。

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2019年4月14日
西洋文化におけるある一定のクラス以上の家庭では、昔レストランデビューというものがあった。大体、それは16歳、アメリカなら、自動車の免許が取れて、デートが許される年齢だ。

貧しい家庭は、そもそもレストランなど行かない。値段もさることながら、そういう場所での振る舞い方を知らないからだ。

もちろん、そこには子供は入れない。どうしても、という時は金を積んで「個室」なら提供しているレストランもあるかもしれないが、極めて例外だ。大抵夫婦は「大人の食事」を楽しむためには、ベビーシッターを雇う。

つまり「レストランで食事ができる」というのは、親にも社会にも独立した「大人」であることを認められていること。レストランは、食事をするだけではなく、そういう意味を持った場所である。

それほど、食事の振る舞い(マナー)は重要視される。

一般家庭にでも感謝祭など親戚がたくさん集まる時には「子供席」とフォーマルテーブルは分かれている。
会話を含めて、食事の行動を身に着けていないと20歳を過ぎていても、フォーマルテーブルには座れない。

ある全寮制の学食では、毎週日曜日、ランチをフルコースで提供していた。正式なテーブルにおいての振る舞いを学ぶためだ。英語がどんなにできたって、まっとうな食事の振る舞いができなければ、ビジネスでは信頼を得られない。

この大学は、家庭事情のさまざまな現実を見据え、受け入れたすべての学生の日常すべてにおいて「教育する場」であり続けていた。

デートもそうだ。16歳を超えたら基本、親は夜の外出を許す。女性の場合、男性は玄関まで来てベルを押して、親はその相手を確認し、送り出す。(昨今は、クラクションを鳴らすだけらしいが・・・)

いつでも子供が「大人になる」のは、本人にも周りにも大きなステップだ。レストランは、その大きな社会的成長において大きな役割を担っていた。

しかし、ファーストフードがデートに使われるようになると「食事をすること」が重要視されなくなった。
日本においては、「ファミリーレストラン」という造語が「外食すること」の意味を変えた。

値段も手ごろで、敷居も低い場所なら、頻繁に利用する。そのような場所で「食べること」が普通になれば「外食すること」の意味が変わる。食事を準備する「面倒」を「金で解決する」場所になる。

これでは、「食」が「事」にならない。ただの「餌」である。
金を払っても払わなくても、ただ与えられるだけ。

その延長で「美味しいもの」を「誰かのコメント」に頼んで選ぶから、どの飲食店も子連れで入れると思う人たちがたくさんいる。企業は儲かるなら、何でもやる。

安くするために「業務用の食べられるもの」の開発も含めて。

今や、ファミリー居酒屋まで出てきている。夜遅く、子供を連れて居酒屋に行く、ということを金儲けが好きな「大人」が可能にした。

でも、連れて行かれる子供達は、そこで何を学ぶだろうか。

「自分が行きたいから」と、子供を連れ歩くことを否定するつもりは無い。しかし、連れて行かれる3歳や5歳の子供だって、常に大人を見て学習しているのだ。しかも、スポンジ並みの吸収力で。

自分の親だけではない。そこに酒を飲みにくる大人達すべてだ。

「子供に隠し事はしない」と胸を張る親も居るだろう。でも、その場所で、親を含めた大人の行動を見て子供は学ぶのだ。本当に隠さなくていいのか。

酒を飲んで、羽目を外して猥談を連発し、セクハラもどきの言動をして大騒ぎするおじさん達の姿を見せることで、どんな教育を施しているか、考えてみて欲しい。

出てくる食べ物より、興味深い振る舞いをしている大人がたくさんいる場所で、親の目が緩んでいる場所で、彼らが見聞きして学ぶことは・・・・神のみぞ知る。

子供達が学校で、そんな大人の真似しても、誰がそれを叱れるのだろう。

そんな子供達が大人になって、本当に国際社会で認められる日本人として行動できるのか。

学校や保育園が、子供にとって社会性を学ぶ場所なら、大人にも大人の場所がある。
だから、待って欲しい。子供はどんな子も社会が「守るべき宝物」だから。

親が子供と「飲むこと」を夢みるなら、その子が5歳の時にやる必要なんてないだろう。
彼らが社会の仲間入りをする日は、あっと言う間にやってくるのだから。

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何事にも「時」がある。聖書にもそう書いてある。その「時」をわきまえることを子供に教えるのは、大人しかいない。大人とは、行動に責任を持つこと。会話を含めてその振る舞いを通して、社会の一員であることを証明できること。レストランは、そういう大人になる訓練ができる場所である。そう思いたい。

毎日の「食事」が「餌」になった時、文化的生活を失った時、そこで作られる人間と家畜にどんな違いがあるんだろうか。

食べられるから、食べ物?

こういう今の食べ物の話もシェフとは意見が合った。シェフのところではパンは知り合いのパン屋から仕入れていたから、この話をするとため息交じりに「みんな値段しか見ないからなあ」とつぶやいた。
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2019年4月8日
先日、珍しくスーパーのパン売り場を覗いた。基本、パンは、パン屋で買うか、自分で焼くか、のどちらかしかない。スーパーのパンは買わなくなって20年以上経つ。
そもそも、イーストフードを体に入れると、頭痛がするので、特定のパン屋のパンしか食べられない。
コンビニのサンドイッチなど論外だ。

そんな私が、夜も遅く、冷蔵庫に余ったチキンサラダをどうしてもサンドイッチで食べたくなり、スーパーのパン売り場を徘徊した。

で、驚いた。食パン6枚切りが85円とかで売っている。2度見したが、やっぱり一袋100円以下だ。

思わず手に取って食品表示を見た。小麦粉とパン酵母以外、理解できそうな食材が使われていない。
もちろん、イーストフードは入っているはず。

ここで思ったのは「これをパンと呼んで良いのだろうか」ということだった。
確かに大手パンメーカーの作った食パンの形の食べ物である。

たしかに、昔も安かった。パン屋の食パンは一袋200円以上だったが、スーパーでは、150円程度だった。
給与が少なかった若いころは時々買っていたが、頭痛がするので買わなくなった。

1990年代、アメリカのスーパーに「ワンダーブレッド」という大手メーカーが作るパンが売られていた。
貧しい家庭の主食と言ってもいいほどの値段だった。今もきっと売っていると思うが、友人はそれを「あれはパンじゃない」と言い切った。パンの味が何もしない、というのがその理由だった。

たしかに、安かった。貧乏学生の自分もその安さでランチ用のサンドイッチとして買ったことがある。
甘味が付いたスポンジみたいな歯ごたえで、パンらしい味は何もしなかった。
あれから30年近く経った今、そのような「パン」に誰も疑問すら持たない。

安いから買う。これは理解できる。でも、私はこの商品を「安いから」と言って買うことは絶対にないだろう。

何故なら、パンの形をしていても、パンとは思えないから。
「パンだ」と思えば、パンなのかもしれない。パン会社が作っているのだから。

でも、私にはこの「食べられる物」を体の中に入れること自体が恐ろしい。

怖いことに、飲食店で提供されるものには、原材料を表示する必要すらない。
どんな食材を使っているかは価格から推測する以外ない。

オランジュは、マヨネーズも自家製だ。しかも、それも本物の卵を割って作っている。
だから、そんな心配は不要だが、他の「安くて美味しい飲食店」はどうなのだろうか。

飲食業は、(閉店するのも早いけれど)簡単に開店できる。業務用の食材もいろいろ開発されている。
それなりに安くて美味しければ人が来るだろう。

でも、そこで食べるものは本当に「食べ物」なのだろうか。
「食べられる物」であることは間違いない。腹は壊さないのだから。

そんな「食べられる物」があちこちに出てきている。

「食べる」か「食べない」か、は個人の自由だ。
砂糖もそうだが、販売は違法じゃない。大量の砂糖が塗されたドーナツを作るのも自由だ。
同じように、遺伝子組み換えされたトウモロコシで作られた甘味料をどれだけ使って新しいソーダドリンクを作るのも自由だ。それを「激安飲み放題」とPRしてお客を呼ぶことも自由だ。

飲食店経営者が「食べ物」ではなく「儲け」しか考えない店であったとしても、私達が利用すればその存在を支えることになる。つまり、その「食べられる物」も支えていることになる。

消費者が「安さ」だけで選択するほど愚かなら、大企業は儲けるために、どこまで行くのだろうか。

外食産業が発達した現代、食べ物が手軽に手に入るリスクは、かなり大きいとしか思えない。
WEB時代だから「知らない」というリスクではない。自身の体の中に入れるものに対して「気にしない、考えない」という「無関心」というリスクだ。

体は「食べた物」で出来ている。

20年後の自分の健康は、今、毎日食べる物の積み重ねだ。「何を食べるか」は、繰り返すことで習慣になる。
「安さ」だけで選び、食べ続けた結果、健康診断の再検査に招待されるのは、自分自身だ。

その頃、大企業は「安い」だけで買い続けた消費者によって、大儲けしているはずだ。

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マヨネーズを作るのは、それほど難しくない。でも、一旦作れば、その油の多さに驚いて二度と常備しようなんて思わないはずだ。
私も、今はマヨネーズが本当に必要な時だけ作るようにしている。大企業のマヨネーズを常備すれば手軽に消費してしまう。食べ物が美味しくなるから使用量も増える。

このサイクルにおいて、大企業は儲かり、消費者の健康は悪化する。何故なら、大量の油は健康を害することは様々な研究発表からも明白だ。

だからこそ常備しないことが重要になる。

安くて美味しい。だから食べるべきか、を判断するのは自前の脳みそにゆだねられている。もっとも、欲望の前に、脳みそが機能停止になることも少なくないけど。


2020年4月21日火曜日

何が注文できるのですか

このレストランのブログを書くことになって一つシェフに約束したことがある。作る人の悪口は書かない。それは、食いしん坊のブログでも同じだ。だからこそ、これを公開すべきか悩んだ。しかし、事の顛末をシェフに話した時、いろいろな議論ができたから公開することにした。
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2019年3月31日
先日、友人とイタリアンレストランに行った。
コース料理でもなく、アラカルトを頼んだ。

アラカルトだから、テーブルにあるメニューから頼む。当然だ。

問題はデザートの時に起こった。

メニューに書いてあるから、珍しそうなものを注文する。
同じカロリーを摂取するなら、コンビニや自宅で作るものじゃあないものを食べたい。
たしか、グラニテだった。

ウエイターが戻ってきて「ごめんなさい、切らしています。」という。

別なデザートを頼むと戻ってきて「すみません。こちらも切らしています。」という。

これは体重計からのお告げだと思って、諦めた。コーヒーを頼んだら、
「マシンが今壊れてしまって・・・」とくる。

じゃあ、同じ飲み物を、と頼むと「それが、最後の1本でした。」とのこと。
ここまで来ると、これが出た。「じゃあ、何が注文できるのですか」と。

シェフが出てきてかなり恐縮しながら「ちょっとずつの盛り合わせはできます。」と繰り返し言う。
つまり「デザート盛り合わせ」に使うバニラアイスなどの定番デザートは、注文できるということだろう。
コーヒーは飲めない上に、デザートも選べないなんて・・・悲しすぎる。

こんな体験をすると個人レストランに「印刷したメニュー」が必要なのか、と思う。
サイトとかでもそうだ。たくさん情報があればあるほど、料理への期待は高まってしまう。

食事は、メニューを「選ぶ」段階から始まっている。選んだものが「食べられない」という失望感は、次に何が出てきてもその「食べられなかった1番目」より劣ってしまう。

オランジュのコースディナーのように細かい情報を「知らない」なら、失望感は生まれない。
一皿との「美味しい出会い」は「感動」を生む。

レストランだって、材料の値段によっては何か月も「切らす」一品もあるだろう。
メニューの商品が「切れています」と答えることで、どれだけの客の信頼を失っているか、考えたことはあるのだろうか。

それより、こんな、お互いにとって不幸になるようなメニュー表記は一体誰が必要とするのだろう。

レストランは、仕入れに寄って作れる料理が異なる。それでいい。
客が知る必要があるのは、それが「何か」で「いくらか」だけだ。
料理が判らなければ、店員に聞けばいい。
それが嫌なら、スマホで検索すればいい。

レストランには、料理を売って欲しい。

特に、個人レストランは、ファミレスじゃないのだから。
年中「印刷されたメニュー」を作るだけになって欲しくない。

もっと自由に、素晴らしい技術を発揮してもらって構わない。
食材が手に入らないなら、メニューに入れなければいい。

それが毎日違っても、毎週、毎月違っても、それでいい。
決まったメニューになんて縛られなくていい。

値段は確かに知りたいが、「一番安い一皿」を注文したいためにメニューを見るのではない。
「食べたい」から選んだのだ。

財布と体重計が理性と共に選んだ1品だ。選んだその一皿を食べるまで満足はしない。

シェフが勧めたデザートの盛り合わせ、完食したけど・・・・
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欧米のビストロクラスの店にある印刷されているメニューは、飲み物だけだった。たしかに定番料理のリストはあったかもしれない。でも、大抵のオーダーは黒板に書かれたものからしたような気がする。

当時店では、すでに固定メニューが無かったけれど、シェフはその運営がどうして難しいかを説明してくれた。お客様がが値段で料理を選ぶから仕方がないらしい。でも、それだと店はオーダーがなくてもある程度は仕込まなければならない。これって、誰もハッピーにならない仕組みだ。

「お客様」が「神様」という「階層」が壊れた時、初めて儲け以外の価値観が重要視されるのかもしれない。