2013年12月25日水曜日

赤白鍋料理対決!

ハウスの管理人がフットサルの試合後の打ち上げで鍋を作ることになった。

これ、管理人と食いしん坊の住人が「鍋対決」と称して2つの鍋を作ることになった。

鍋と言っても大きさは「ちゃんこ鍋」位大きい。

管理人が白(塩味)担当、住人が赤(チゲ)担当だ。

20人ほど集まったから一人200円も貰えれば材料費は十分。
どちらも市販のたれを使って作ったが、鍋が大きいから、たれの味は気休めにしかならない。

でも、野菜や肉、たらをぶち込んだら、十分に美味しくなった。

そこに麺まで投入した。

白にはうどん、赤にはラーメンが入った。

若い子はラーメンが好きだから、人気は絶対的に赤が有利だった。
すぐに無くなったけれど、まだ仕事から戻っていない人がいる。

鍋はほとんど空っぽだ。

材料が残っていたから、2度目の白は私が作った。

たらは、血合いを取って塩をした後、湯通しして臭みを取った。
鶏肉は、いったん炒めて表面を焼きしめた。

それを見ていた管理人が「さっきは、洗っただけでぶち込みました」と言う。
だから、それでちょっと臭みがあったことを説明した。

野菜が沢山あったのでそれを放り込んで塩と酒だけで味付けした。

薄味だけど、たらの臭みが無くなってずいぶん風味が引き立った。
ポン酢を混ぜて食べると本当に美味しい。
もっとも、旬のたらだ。
まずいはずがない。

下処理、恐るべし。

鍋対決そっちのけでみんな3つ目の鍋に群がり始めた。

みんな一体どれだけ食うんだ?

エージレス(脱酸素剤)、どうしてそこに居るの?

昨夜、冷凍庫をチェックしたらパンが無い。
朝食が無いのは困るんで、あまりやりたくないが、朝、起きたらパンが焼けるように設定した。

何故したくないか?

その理由は騒音だ。

このパン焼き器、むちゃくちゃうるさい。
寝室とキッチンに距離があれば問題ないけれど、ワンルームの部屋でこれを使うと大体、夜中に起こされる。

でも朝、焼きたてのパンの匂いで起きるのは最高だ。

朝、焼きたてのパンを食べるということは、うるさい音を我慢すること。
すべてが思ったとおりに行かないのは人生と同じだ。

という訳で、朝、パンの匂いで起きた。

で、出来上がりのブザーを目覚まし代わりにパンを取り出す。

で、上部に変な色が目についた。

ほじくるとしかエージレスが出てきた。
しっかり焼きこまれている。

小麦粉の中に入っていたやつを見逃したのだ。

咄嗟に思ったことは「このパン、食えるんだろうか?」だ。

朝食が無くなるのは困る。
それに、食べ物を無駄にするのは絶対に嫌だ。

でも考えた。
大体、食い物の中に入れておくもの、毒じゃあないだろうから、これ位食っても死なないだろう。

だから、朝食にはそのパンを食べた。

でも、心配になったからWEBで調べてみた。

思ったとおり、知らずに料理にぶち込んであせっている人が沢山いた。

それより多いのが「犬が食べた」というもの。
でも、匂いも何もしないプラスチックの「何」が犬の興味を引くのだろうか。

ともあれ、エージレス、中身は安全だ。
でも、飲み込んだ場合プラスチックの外側が危険らしい。

破れても中は毒じゃあないけど、食べ物じゃあないから頑丈に包むためだ。

なら、最初から入れなきゃいいのにね。

旬の食べ物から生まれるもの

この夏に育てたトマトから作ったトマトソース、まだ10袋くらい冷凍ストックがある。

このトマトソース、自家製だからさすがに旨い。
バジルも今年家で出来たやつを冷凍してある。
これらで作る、野菜のトマトソース煮(ラタトゥユ)が半端なく旨い。

今の時期は芋やかぼちゃが必ず入る。
これも複数の芋やかぼちゃが手に入るときは、それだけのトマト煮になる。
この時は、おかずというより炭水化物ばかりだから、それだけで一食済む。

芋もかぼちゃも種類の異なるものを2、3種類、それに自家製の切り干し大根やにんじんを加える。
根菜のオンパレードだ。

かぼちゃは違うけど。

グルメな叔父に言わせると、春は植物のエネルギーは土の上に、秋は土の下に溜まるらしい。
だから、冬には根菜を食べるべきだとのこと。

でも、冬の寒さの中で保存できる野菜は根菜かかぼちゃしかない。
たまねぎや白菜もまた冬野菜だ。

だから値段も安い。

そういう野菜なら、たくさん食べられるだけでなく、みんなと分け合えることもできる。

自分だけで美味しいものを食べるのもいいけど、誰かと分け合った方がもっと美味しくなる。

何より、食べ物の重要さは新鮮な食べ物を食べることよりも、食べることを楽しく感じること。

美味しければ、食べたくなるし、楽しければ食事の時間は楽しみになる。

安い居酒屋にゆくより、旬の野菜で鍋を囲うなら、一人300円も集めれば十分だろう。

一緒に料理すれば、その人のことをもっと知ることができるんじゃないだろうか。

2013年12月22日日曜日

から揚げになるんじゃあなかったの?

高さが4センチしか高さがないダッチオーブン、毎朝冷凍パンを焼くのに欠かせない道具になっている。

本来、日本の台所のどこにでもある引き出し式の魚焼き部分に入れて使う簡易オーブンだけれど、コンロの上でも十分役に立つ。

そんなオーブン、「から揚げ」を揚げなくても作れると書いてあった。

油を使わないから揚げのことを考えたら、急に食べたくなった。

「すぐ食える」と思ったらもう駄目だ。

味を付けて冷凍しておいた鶏肉をお湯で解凍すれば後は、調理するだけ。

そういえば、でんぷんをまぶす時「袋にいれてまぶすと楽チンよ」とどこかで読んだことを思い出した。

だから、解凍した袋にでんぷんを放り込んだ。
ずいぶん、どろどろな感じでちょっと不安に思った。

だから、アルミ箔を敷いてから並べた。

で、しばらくして蓋を開けると、鶏肉がそのままひとつに固まっていた。
ほとんど、でんぷんの団子だ。

鶏肉バージョンだけど。

火はすっかり通っているが、から揚げのイメージからは程遠い。

頭は「この食い物は何だ?」でいっぱいだ。

アルミ箔から引っぺがすと、大きな塊になった。

だから、今度は網の上において焼いた。

オーブンといっても温度調整ができる訳じゃない。
底に張り付くと大変なんで、オリーブ油を引いた。

今度は焦げた。

でも、鶏肉料理には違いない。
十分以上に旨いけど、から揚げからは程遠い食べ物だ。

欲望が先走る料理には、ろくなことが起こらない。

何で「クリームぜんざい」って呼ぶの?(泣)

甘いものラッシュに書いたように、シュークリームに続いて、友人から「クリームぜんさい」という商品を貰った。

貰ったのが夜中だったから、寝る前に食べるのはちょっとまずいと思って冷蔵庫に入れた。

「明日は朝食の代わりにデザートだ」と思って楽しみにしながらベットに入った。

次の朝、コーヒーと一緒に食べようとして蓋を開けた。
小豆と求肥でできた餅が並んでいる。
スプーンですくったら、白いジャブジャブのスープが出てきた。

小豆も餅も浮いている。

「?」と思って中を混ぜるとどろどろのクリームだ。

一口食べると、ものすごく甘い。

友人はこれを絶賛していた。

「これが、そんなに美味しいんかい?」と思ってよく表示を見た。

「アイスクリーム」って書いてある。

はあ?

アイスクリーム?

だって、「ぜんざい」って言ったじゃん。
ぜんざいがアイスクリームだなんて聞いてない。

「クリームぜんざい」って言うから、てっきり「クリーム」の使ったぜんざいかと思っていた。

そういえば、レンジに20秒だけ入れろって言ってた。
意味がわかんなかったけど、それって硬いアイスクリームを「柔らかくする」という意味だったんだ。

「これ、すごくうまいよ」と言われて貰ったが、うまい理由は当然だ。
だって、アイスクリームだもん。

油成分と砂糖の最強コンビネーションだ。

とけたアイスクリーム、甘いミルクスープでしかないけど地元の牛乳で作られているから、味は悪くない。

でも、商標はせめて「(アイス)クリームぜんざい」にしてもらえないかな。

甘いものラッシュ

自分の時間を「誰か」のために使う。

そうすると、「誰か」は感謝の気持ちを食べ物でお返しする人が多い。

決してそれを貰うことを目的に「誰かのために何かをする」のではないけれど、食べ物は感謝の気持ちを表すのに便利な物なのかもしれない。

その中でも甘いものは、ダントツにその気持ちを表すのに使われる。

日本の義理チョコが一般的になったのは、チョコレート屋の戦略だ、と言われているが、それだって「甘いもの」だから普及したのだろう。

だから、お土産や手土産に甘いものを買ってゆく人は多い。

でも、貰う側は少々悩ましい。
だって、カロリーの塊でしかないんだから。

おいしさの感じ方も人それぞれだ。
美味しいものなら喜んで食べるけど、甘いだけの添加物の塊なら「ありがとう」の声も震える。

甘いものが苦手な母は「好きではない」と言えない。
だから、冷凍庫の中はねずみに集められたチーズの欠片のように、あらゆるところにおやつが深い眠りについている。

その数は、毎回実家に戻るたびに増えてゆく。

そうやって、甘いものは甘いものを呼ぶ。

先日、シェアハウスの玄関整理のために下駄箱をDIYしたら、そのお礼にと管理人の奥さんからシュークリームを貰った。

その夜、友人に電話で呼び出されて愚痴を聞いたらクリームぜんざいを貰った。

たしかに、私だって「要らない」なんて言えない。

でも、全部食ったらどれだけのカロリーなのか。

それを考えると、私の笑顔も引きつるが、私の中の食欲は、この甘いものラッシュに狂喜乱舞している。

ぜんぜん、くっつかないじゃん

最近、仕事中にランチ時間が取れなくなった。
10分休憩しかない。

でも、腹が減るから休憩でつまむものが欲しくなった。

エナジーバーを作ろうと思ってWEBで調べると、いろいろある。
砂糖の使わないものを作りたかった。

ちょっとセンスのいいHPに「バナナで材料をまとめる」というものが目に付いた。
マシュマロをつなぎにするレシピは多かったけど素材が好きじゃなない。
これがいいと思って作り始めた。

ハンドブレンダーでクリーム状にしたバナナに材料を入れてオーブンで焼く。

出来上がったものは、なんとなくばらばらしている。
これが固まるとくっつくのだろうか、と思って冷えるのを待った。

小さく切ろうとすると、ばらけて行く。

ある程度は固まったけど、とても「バー」になるほど固まりはしない。
袋に入れてしばらくするとばらばらになった。

でも、味はいい。
だって、ナッツとチョコレートじゃあ、当然だろう。

ばらばらのエナジーフレークを見ながら心に誓った。
「WEBに書いてあること、まるごと信じるの止めよう」と。

マシュマロの元は卵白と砂糖とゼラチンだ。
冷えて固まるのはゼラチンなんだから、ゼラチンと卵白混ぜればくっつくかも知れない。

ともかく、おやつとしては上出来だ。
100円ショップのクッキーとは材料が違う。

大きな塊はともかく、このフレークになってしまったものはどうしよう・・・・

2013年12月17日火曜日

高価な食材とアレルギー

アレルギー持ちの友人がしばらく旅に出るので、鉢植えの世話を頼まれた。

旅立ちの朝、鉢植えといっしょに、冷蔵庫の残りを私にくれた。

これらの食材は凄かった。

美味しいと有名なブランドの砂糖不要のジャム、ギリシャ製のチーズ、そして有機栽培の大豆で作った味噌。

りんごジュースだって、還元濃縮じゃあない。

これは食費にお金がかかるはずだ。
だって、どれも高級品。

でも、彼女にとっては健康を維持するのに必需品だ。

薬や病院に行くより、食べ物で予防できるのなら決して高い買い物ではない。

しかし、私がこういう高級食材を買うのは「旨い」からだ。
そして、それを知っている。

だから、購買理由がそもそも違う。

田舎で育ったから、食べ物は地元のものばかりだった。

東京で10年以上暮らしたが、その間ろくな食生活をしていなかった。

昨年、地元に戻ってから健康状態はすこぶる調子がいい。
猛烈に貧乏になったが、冷え性も便秘もその気配すらない。

あれほど、漢方だ、マッサージだと金をかけたが全く無駄だった。

忙しさから加工品を食べる生活から、貧乏だけど自分で料理する時間を持つ生活へ変わり、食べ物が変わることで体が変わった。

当然だ。
食べ物が体を作っているのだから。

食物アレルギーはないけれど、結局、健康への近道は、食べる物に気をつけること。

それは、アレルギーを持っている友人とあまり変わりないのかもしれない。

人口の1%?!

今日読んだウォールストリートの「米国レストラン、グルテン除去の試練」を読んで驚いた。

200~300万人がグルテンが影響する自己免疫疾患を持っているらしい。
これは人口の米国人口の1%弱。
その6倍の人がなんらかのグルテン過敏症だそう。

これって、人口の5%以上の人が程度の差はあれ、グルテンアレルギーってことになる。

彼らの生活が大変なことは知っていたが、これほど疾病者が多いとは思わなかった。

しかも、この数は増えることがあっても減ることはない。
これならマーケットとして商売になる。

たしかにウォールマートがオーガニックに力を入れるはずだ。

組み換え遺伝子や添加物が「安全」というのは、「食べても死なない」程度と捕らえるべきだ。

だって、誰もそんな食べ物を食い続けた人はいないのだから。

だから、人類は今、壮大な人体実験をしているのかも知れない。

ただ、この数字はその結果があまり喜ばしくないことが起きる兆しに思える。

食べるものを誰かに任せる以上、それを選ぶのは消費者の責任だ。

儲かることだけを考えれば、売るために企業は何でもするだろう。
それには、人間の欲望への刺激が一番だ。

高価な食品でなくても、大量消費は儲けに繋がる。
だから中毒者を増やせば、大量消費も楽チンだ。
大企業は食べ物が売れることしか考えない。

でも、その結果、食べる側はどうなるか。

食べ物を選ぶのは、人生を選ぶこと。

生きるために食べるだけなら、人生の意味もその程度しかない。

甘さを追及しても仕方ないでしょ

みかんの消費量が減っている。

当然だ。
かつてはどこの家でもダンボールで買っていた。

でも、核家族化と(皮を剥く)手間が敬遠されている。

だから、みかん農家が困っている。

そこである県が「甘い」みかんを開発中というニュースを読んだ時「それは違うよ」と思わず叫んでしまった。

「甘いみかん」はたしかに美味しいけど、それは甘いから美味しいのであって、みかん本来の旨さとは違う。

ショートケーキを食べていた時にも感じたことだけど、旨さは甘みだけでは絶対に飽きる。

程よい酸味があるから、甘みが引き立つのであって、この旨さの中に含まれる甘みは「糖度何度」と量れるものではない。

ましてや、みかんをどれほど「甘い」食べ物にしても砂糖の200倍の甘さのコーンシロップを日常的に口にしている現代人が「美味しい」と感じるほど甘くなるとは思えない。

彼らがみかんを食べると、甘みより先に酸味を感じるはずだ。
だって、みかんの甘みは彼らの舌には「十分に甘い」訳ではないのだから。

みかんは美味しい。
特に日本における新種かんきつ類の開発は、技術だけでは成功しなかっただろう。

掛け合わせたときの味のイメージが無ければ、これだけいろいろなかんきつ類が世の中に出ているはずがない。

人間の想像力は、実行への原動力だ。

だからこそ、甘いだけで「売れるみかん」になるはずがない。

「おいしいみかん」を作れば、結果的に「売れる」のだ。

結果と目的を取り違えると、ろくなことにはならない。

マーガリンとバターの違い

食べ物には似て非なるものが多い。

たとえば、マーガリンとバター。
マーガリンはかつてバターの代用品として開発されたらしいが、代用品は所詮代用品だ。

しかし、スーパーにはいろいろ加工されたマーガリンが売っている。
バター含有率20%とか某高級ホテルのマーガリンとか。

そもそも、マーガリンに本物を混ぜても、所詮偽物だ。
だから、マーガリンを使うようなホテルを「高級」と考える消費者の方が馬鹿だ。

これ、男性でも同じことが言える。

うわべは格好が良くても、いざとなると何も決められない男がいる。
その反面、無骨だけど、いざとなると頼りになる男がいる。

そんな男性達を見るとき、バターと高級ブランドマーガリンを思い浮かべる。

バターなら、どんな食材でも料理でもコクを高めてくれる。

男性も、バターのような人なら、共に過ごす女性の人生にもコクがでるだろう。

どんな困難でも、出産や転勤など、人生のどんなイベントでも美味しく料理してくれるはずだ。

かたや、高級ブランドマーガリンのような男性。
肩書きは立派だろう。

でも、所詮マーガリンだ。
風味が出るわけでもないし、コクが出るわけでもない。

単純に油っぽいだけ。

最初しばらくはこの油で美味しく感じるかもしれないけど、しだいに胸焼けしてくるだろう。

だって、風味も個性もないのだから。

どこの食べ物もマーガリンばっかり使う現代、どんな男性も工業製品みたいに高級な肩書きと、味の無い会話ばかりしかしない。

バターみたいな男性って、どこに行ったら見つかるんだろ?

デザートが食えないっ

先日、シェアハウスの一足早いクリスマスパーティがあった。

住人の料理人が腕をふるって、伝統的なアメリカのクリスマス料理を披露した。

チキンとスタッフィング、マッシュポテトとグレービー。
八百屋で売っていたバターナッツがちゃんと調理されて登場した。

まさしくアメリカンクリスマスディナーだ。

マッシュポテトがものすごく美味しい。
牛乳を混ぜる一般的なレシピだが、タイムとオレガノで風味付けをしていた。

知り合いはクリームチーズを入れて作っていた。
これはほとんど麻薬だ。

彼女の作った今回のマッシュポテトもそれに匹敵した。
3度取りに戻り、グレービーをかける。

このグレービーも本当に美味しかった。

みんなで食べると更に美味しくなる。

40人ほどは来ていただろうか。
大いに話して、飲んで、笑って、食べて・・・たぶん食べる時間が一番多かった。

で、3種類ものデザートがキッチンの隅にあったことを知っていたから、心待ちにしていたが、ここでありえないことが起こった。

デザートを皿に盛ってもお腹いっぱいでもう何も入らない。

私にとってデザートは常に「別腹」だったのに、今回に限ってもう一口も無理だ。

それより、胸焼けしてきた。
何か急に胃の中で食べ物が膨張した感じだ。

久々にやった。
完璧な食いすぎだ。

笑顔もだんだん引きつってきたから引き上げることにした。
デザートを貰って、部屋に戻った。

横になったら少し落ち着いた。

翌朝のコーヒーを飲みながらデザートを食べた。

日付をまたいだディナー、これにて終了。

アレルギーと共に生活することから学ぶ

私は友人のように食べ物にアレルギーがないが、ハウスダストや化粧品にはことごとく体が反応する。

昔、ある男性とチークダンスをしたら、顔が半分だけはれ上がった。
彼が大男だったので、革ジャンに顔半分が当たっていたためだ。
革ジャンのオイルに反応したらしく、ムードも何もあったもんじゃあない。

曲が終わってトイレに駆け込んで必死に洗い落とした。
彼は完全に誤解して、2度目のデートは無かったと記憶している。

だから、埃を吸わないように、ファンデーション他、化粧品は使わないようにするだけで私の生活はなんとかなる。

でも食べ物アレルギーは、本当に大変だ。
大体、何かを食べたら苦しむかも知れないというリスクと毎食戦う必要があるのだから。

食べたいという欲望は誰にでもあるだろう。
でも、その欲望のままに食べてしまうことで命の危険まで脅かされるとは、まるで中世における暗殺の世界だ。

毒見のための奴隷を身近において、食べ物に毒が入っていないかを恐れて生きる権力者。

現代だけに「危険な食べ物」が多いというわけではない。
食べることが安心できない人々はかつて存在した。

いつの時代も課題は「食べ物を提供してくれる人との信頼関係」だ。

かつては、その信頼関係、家庭や近所、一族の中だけだった。
食べ物が工場で作られるので、現代は、その範囲が社会まで広がった。

でも、大企業が作る食べ物、自分は信頼しているから買うのだろうか。

それとも、値段と甘味と広告に釣られているだけだろうか。

アレルギーがあっても無くても、そして、いつの時代も、食べることは、生活の中で一番大変な作業だ。

それをお手軽に済ます人生なら、その人生には何があるんだろう。

アレルギーが1つだけじゃあないって・・・

小麦アレルギーだけでもしんどいと思うのに、乳製品も制限される人生なんて私には想像できない。

酪農地帯で生まれ、3歳前には生クリームの味を覚えた私。
乳製品が無い生活はありえない。

もっとも、アレルギー持ちの友人に言わせれば、ライスミルクや豆乳など乳製品の代わりはいろいろあるそうな。

そうは言っても、乳製品に含まれる油成分のインパクトは大豆や米では太刀打ちできやしない。

生クリームなんて、ほとんど悪魔的なコクで、私の食欲を刺激する。
砂糖が加わればダブル悪魔だ。
誘惑度はMAXを超える。

こんな食いしん坊は、アレルギーひとつでもある生活なんて想像しがたいのに、複数持つ生活なんて。

美味しい料理は妄想はできても、それが食えない生活は想像できない。

ただ、話を聞くと、大抵の人がひとつアレルギーを発症すると、その後、2つ、3つ発症するそうな。

何かを避けた食生活は結局、何かに偏った食生活になるのだから、当然といえば当然なのかも知れない。

食べ物をあまりにお手軽に、安く食べる生活は、なんらかの形で体に影響していることは事実だろう。

権威ある人たちが目いっぱい権威を振りかざし「添加物は安全だ」と叫んでも、健康被害が起こった時に、責任を取ってくれる訳じゃあない。

だいたい、工場製品の原料表示を読んでみると判る。
あれだけ色んな聞いたことのない添加物を食べて、体に影響が無い方が不思議だ。

でも、結局自分の食べるものは、自分で責任を負うしかない。

だって、選ぶのは自分なんだから。

レストランで、工業製品で、誰かに食べるものを作る「責任」を負わせ、その責任を「金」で買う「選択」をするのが消費者なら、「選択」した責任は消費者自身だろう。

レストランの料理は返金してもらえたけど、健康は買い戻せないよ。

豚肉の元は、何を食った?

先日の夕食会、あれほど気をつけたのだけど、アレルギー持ちの友人の体は食後調子が悪くなったそうだ。

何かにグルテンが入っていたのかといろいろ考えて議論したが思い当たらない。

大量のでんぷん質が問題だったかもしれないとも推測した。
加えて、彼女、乳製品にもアレルギーがあることを知った。

原因は、どうも乳牛が食べる餌にあるらしい。
そこまで判っているのなら、卵の生産元、鶏の食べる餌を気にするはずだ。

肉や卵、牛乳を買う時、それらを「生産する動物」が「何を食べた」結果、手に持った「パックの中」に納まったのかは考えない。

産地を気にしても安全は幻想でしかない。

ただ、旨さに違いがあるのは事実だ。

牛乳は特に顕著だ。餌で味がかなり変わる。

肉だってそうだ。

だから、多少値段が高くても輸入肉は買わない。
オーストラリア産のビーフだけは例外だけど。

でも、よく考えれば「味の違い」は餌を含めた「育て方」の違いだ。

生産者からみれば動物は「商品」だけれどもそれらの健康まで考えるかどうかは、生産者の思想や哲学が大きく影響する。

そういう思想を主張すること、そして消費者としてその思想を商品を「購入」することで支えること、この相互作業は社会の仕組みとして「信頼」の基本になる。

昨今、そんな哲学を持つ生産者も増えてきているが、どうしても大企業の商品と比べると値段が高くなる。

でも、食べる回数を減らせば買うことができる。

ビジネスに必要なのは売上金額の増加ではなく、ファンの数が増えること。

だから、身近でがんばる愚直な生産者を探して支えようよ。

自然の復讐か、それとも警告?

アレルギー持ちの友人と知り合って食べ物について考えることが多い。

昔は、こんないろいろなアレルギーを持つ人は居なかった。
大体、工場製品など売っていないし、食べ物はみんな自分の家で作っていた。

味噌も醤油もみんな自家製だから、入っているものはシンプルだ。

でも時代は食べ物を作ることを「誰か」に任せた。儲かるから、大企業はどんどん作る。

そして、食材の元となる動物の餌を変えてまで「安くて美味しい」ものを作り出し消費を煽る。

それは、自然の仕組みに逆らったやり方だ。

牧草を餌とする牛にコーンを食べさせて抗生物質と共に速成で太らせる。
病気になっても死ぬ前に肉にすれば問題ない。

そんな牛肉をファーストフードの大企業が大量に購入し、脂肪分の多い肉で安いハンバーガーを作る。

油と濃い味で味覚を麻痺させた商品は、刺激が強いが、値段も安い。

そして金さえ払えば5分で食べられる。

結果、現代人は昔の人とは比較にならないほど、たくさんの人が食べ物アレルギーを持ち、苦しむことになった。

これは自然界が、儲けることしか考えずに暴走した人間への復讐なのだろうか。

それとも、警告なのか。

添加物を使用した大企業の工業製品が食べられない人は、原料の作り方や餌を気にした商品を買って自分で作ることになる。

つまり、昔の生活と同じように、食べ物を自分で作る生活にならざる得ない。

この場合、生産者を信じて素材を買うしかない。

これは、人間不信が蔓延る現代「信頼」という言葉の意味を教えてくれる行為なのかも知れない。

2013年12月16日月曜日

シュークリームの皮がパンになったら

ここは酪農地帯なので美味しい牛乳が生産されている。

この美味な素材を使って作られる生クリームベースのお菓子、この誘惑にはただ、ただ、屈するしかない。

もちろん、素材が安く手に入るから、味の違いも判らず、せっかくの風味を殺すほど砂糖を使ったケーキ屋も多いが、素材を生かしてがんばる店もいくつもある。

おやつの日に予約するケーキ屋はもちろん、全国ベースでの商品展開はしていないけれど確実にうまいケーキ屋は存在する。

そういうケーキ屋の商品、生産量はそれほど多くない上、まず日持ちしない。

なぜなら、甘みも少ない上に生ものレベルも鮮魚並みだからだ。

今日の夕方、シュークリームで有名な地元のケーキ屋が作った商品を買った。

消費期限は8時間後だ。

本来、買ってすぐ食べるべきこの商品、実は「クリームパン」だ。

でも、形はシュークリームと同じように丸いドーム型だが、外のシュー皮は弾力のある柔らかいパンでできている。

中のクリームは生クリームをベースにしたカスタードよりもっと軽いクリームだ。

これ「ちぎって食べるシュークリーム」だそう。

私は「シュークリームパン」と呼びたい。

たしかに、ちぎってクリームと一緒に食べると本当に美味しい。

クリームパンをどれだけ上品にしてもこの味は出ない。
皮の弾力感が「クリームパン」にはならない大きな理由だろう。

この皮、しっとり感が強いが、時間がたつと硬くなる。

どんな素材で作っているのか知らないけど、やはり、美味しいものは出来立てが一番だ。

2013年12月14日土曜日

危険な発酵バター

発酵バターの味を知ったのは何時だったろうか。

初めて食べた時、極上パンといっしょに出てきた。

まだ暖かいパンに乗せてほんのり溶けたところをかぶりつた時、ピュアエクスタシーを感じた。

こっそり、そのまま舐めてみた。

ほんのり甘みがある。

病み付きになりそうだ。
これ、ほとんど麻薬である。

でも、その時、それが「発酵バター」だとは知らなかった。
単純に「味付けバター」と思っていた。

その後、何度か発酵バターを味わい、その味を覚えた。

だから、パンと一緒にこれが出てくる店の料理は、多いに期待できた。
そして、その期待には裏切られたことがない。

もっとも、そんなバターをパンといっしょに出す店は限られているけど。

そんな危険な味を覚えた私、ある日、職場の傍に「エシレ」があると知った。

ここはフランスの有名な発酵バター専門店だ。
メイン商品のバター他、それで作ったパンやクッキーを売っている。

クロワッサン一個が400円。

毎日午前中に売り切れるほど人気があった。
そりゃあ、50%がエシレの発酵バターで作られているなら当然だ。

ある日、どうしても食べてみたくて仕事を抜け出して買いに行った。

食べ比べたくてバター含有量が異なる2種類をひとつずつ買った。

2個のクロワッサンでランチ1食分だ。

で、味は凄かった。

発酵バターだけでも麻薬的なのに、それがさっくさくのクロワッサンになればメガトン級のインパクトだ。

カロリーもそうだけど。

断然、バター含有量が多い方が旨かった。
油はうまさを感じさせる根拠であることを確信した。

でも、毎日食べる味としては微妙だ。

北海道小麦で作る地元のクロワッサン、一個150円もしないけど焼きたてのうまさはこっちに軍配が上がる。

食べ物の味も人間の性格も、強烈な個性は人を引き付ける。
でも、長くは続かない。

でも、どちらもバランスこそが本当の「魅力」に繋がる根源なのだろうね。

いろいろな卵

フランス人の友人との夕食会、私がジャガイモとかぼちゃで餃子もどきを作るので、彼女はグルテンフリーのブラウニーを作ってくれることになった。

グルテンアレルギーを持つ彼女は、食べ物にとても神経質だ。
体のことを考えると、そうならざる得ないのだが、卵がどんな鶏から生産されたのかまで気にする。

うちの母もそう言って、らでぃしゅぼーやの野菜と卵をすでに10年以上購入している。

彼女が「放し飼いのちゃんとした餌を食べた鶏」にこだわるのでちょっと調べてみた。

大丸デパートでは売っていた。

ただ、ひとつ100円以上する。
6個入りで700円近くだ。

スーパーごときに扱える商品じゃあない。

ちなみに、私は八百屋で10個108円の卵を買っている。
ちょっと値段が上がって最近120円になった。

そんな訳で彼女、今回もブラウニーを作るのに卵選びには苦労した。

まだ日本語が良く読めないから、ケースにたくさん漢字があるのが「オーガニック的」なものと思ったようだ。

作る前に私に確認を求めるから、見てみると、ケースには「塩味半熟卵」と書いてある。

半熟卵を売っているのも驚いたが、味つきというのにも驚愕した。
その塩の産地が華々しく漢字で書いてある。
かわいい鶏の絵も付いている。

たしかに、「特別な卵」に見えるが、意味が違う。

説明すると、彼女は落胆したが、私が前日一ケース120円のたまごを買ってあったのでそれを使うことになった。

ケーキはピュアチョコレート、バター、アーモンドパウダーから作られたから極上の味だ。

しかし、味つきの半熟卵が売ってるということは、ビジネスになるほど「買う人」が居るということだ。

それも驚くべき事実だ。

ちなみにこのゆで卵、塩加減がゆるい普通の味だった。

でも、たまご茹でるのって、そんなに難しいのかなあ・・・・

仮想店舗でも、そりゃあないでしょ

りんごへの情熱が止まらない。

家の在庫が無くなってからも、どうしても食べたくて某RのWEBショップで「送料込み」のりんごを探した。

1300円で2キロ。安いし、美味しそうなので注文した。

到着して箱を開けると、たった8個しか入っていない。

量ってみるとちゃんと2キロある。
味はとても美味しいし、何も問題は無い。

でも、1個160円以上。
「訳ありりんご」で安いと思ったけど、ちっとも安くない。

レビューを書く約束をしていたから、そうやって書いた。

そうしたら、2日後に同じ商品が698円になっている。

私が注文した時のほぼ半額だ。
単純に「送料別」の表示にしただけ。
つまり、払う金額は変わっていない。
変わったのは値段表示だけ。

結局注文すれとなれば1300円払うのだろう。

「R最安値に挑戦」という広告がWEB上に派手に舞っている。

確かに安いかもしれないけど、信じた私は馬鹿だった。

この体験は「食い物に安さを求めるとろくなことが無い」という典型的なものだ。

だから、どんなに味が良くても、ここから二度と買うことはない。

りんごやみかん、10キロ箱が売れないから2キロ、3キロの商品を作るのだろう。

でも送料を考えると、そんな商品を作ること自体、問題だろう。
だって、支払料金の半分が「送料」なんだから。
「売れる商品を作る」のは判るけど、これは酷い。

りんご8個なんて、店先の籠1盛程度の重さだ。

あれが、2キロもあるなんて考えたことも無かった。

分かっていたら注文しなかったのに。

りんご、おいしかったけど後味は最悪・・・

2013年12月12日木曜日

「規格外」としての魅力は?

先日、食いしん坊の友人と2日連チャンで夕食をした時、野菜の味の話になった。

彼女は「形が悪いやつとか、小さい方が味が濃いと思わない?」と聞く。

いつも行く八百屋は、そんな商品を仕入れてきているらしく、どこのスーパーよりはるかに安い。

最初も今も、安さには惹かれるが、味もまた、確かにおいしい。

彼女が言う。

「スーパーの野菜って、形もきれいだけど、味あんまりしないんだよねえ。
母が送ってくれた長いももさ、規格外の小さいやつばっかりなんだけど、ほんと味が濃いんだよ。
近所の農家が(農協に)出せないやつ、分けてもらったらしいんだけど、スーパーで並ぶよりおいしいなら、こういうの売れないのかなあ。」

たぶん、売れないだろう。

なぜなら、みんなが買わないからだ。

野菜だけではない。

老人、障がい者、外国人。

日本の文化に他者と「違うこと」を価値と認めることは存在しない。

どんなにユニークな人も「規格外」なら普通の店(企業)には現れない。
労働市場では「売り物」にならないから。

だから、規格外は、野菜も人間もたいへんな目に会う。

ただ、人間も、スーパーの野菜が「きれいなだけで味が薄い」ことと同じ。

都会の企業に勤めてウン十年。
そういう人が持つ価値観も考え方も退屈だ。

だから「規格外」の方が断然面白いし、味がいい。

もちろん、ひねくれたやつも多いけど、それもまた個性だろう。

野菜も人も見かけで判断するのは損なことだ。

だって、重要なのは中身であり、その味なんだからね。

サワードリンク、出来上がるまで待てないっ

2週間前にサワードリンクの元を切らしたので、職場に毎日水を持って行っていたが、さすがに味無しが飽きてきた。

今年のゆずのサワードリンクはまだ出来上がっていない。
だいたい、ここから遠く離れた実家にあるからすぐには手に入らない。

前回、パインを作った。
今回はキウイにしようかどうしようかと考えた末、ぶどうで作ることにした。

いつもそうだけれど、何か決めて大丸にゆくと、たいていバーゲンでそれが手に入る。

私はバーゲンを呼ぶ女だ。

で、今回は一ケース700円するスチューベン。
私が行った時に半額シールが張られていた。

姿形も立派な大振りの房が2つ、ケースに入っている。
これでサワードリンクの材料は手に入った。

きれいに洗って半分にして種を取る。
これが面倒だけど、漬け込んだ後はフルーツソースにしたいなら仕方ない。

漬け込んだ後の材料で作るソースはちょっと酸っぱいけど、スムージーに入れるにはちょうどいい。

捨てるなんて私には無理。

りんご酢と砂糖、1:1:1で漬け込むこと2週間、サワードリンクの元が出来上がる。

これを10倍程度に希釈して炭酸や水で割って自家製の清涼飲料水を造るのだけど、2週間かかるのが難点だ。

そして今日はまだ1週間。
色づいてきたけど砂糖はまだ下に残っている。

今日もまた職場に水を持ってゆくのは嫌だ。

無理やりサワードリンクにして持ってゆく。

でも、すごく酸っぱい。

サワー「だけ」のドリンクだ。

十分な時間をかけていないから、素材が混じってない。

何でも成熟するにはある程度の時間が必要だ。

人間関係も同じこと。

2つの素材がゆっくり混じっていい感じになる。
サワードリンクも、恋人同士も。

急いだって、できないもんはできないね。

味と視覚と「欲望」と

彼女のご両親がみかんを送ってきたらしく、夕食前にランチを食べていない私に出してきた。

ボールいっぱいのみかん。

2つ食べた後、リビングから離れた奥の洗濯機の上にボールごと置いてきた。

危険すぎる。
美味しすぎて止められない。

「空腹は最高のスパイス」というけれど必ずしもそうではない。
空腹時にファーストフードを食べても「欲望」は全く刺激されない。

そもそも、空腹でも「ファーストフードを食う」という選択肢は「何も食わない」という選択肢が「できない」時にしかしない。

たとえば、この先3時間電車に揺られるのに「そこしか食べるところがない」場合がそうだ。

でも、目の前の食べ物が「美味しい」と分かった時、理性を使い、行動を抑制しようとしても無理だ。

大抵、欲望が勝つ。

空腹ならなおさらだ。

それでも、目に見えなければ、その欲望も刺激されない。

もっとも、人間には想像力があるが、手を伸ばして取れる状況と、取れない状況では理性の働き方が違う。

まるで、しつけの良い犬と悪い犬だ。
目に見えれば、私の「欲望」は「しつけの悪い犬」に成り下がる。

だから、目に見えないようにする、誘惑の巣窟であるデパートの地下は避ける、これが重要だ。

美味しいものが揃うデパートの地下で、自分の中の「欲望」を「しつけの良い犬」並みに制御できるのは2つの状況しかない。

食後であること。
割引が大きくなる、閉店間近ではないこと。

従って、仕事の帰りにデパートの地下を「見てしまう」ことは「欲望」が「しつけの悪い犬」に成り下がることだ。

この「心の飼い犬」のしつけの難しさは食いしん坊ならきっと分ってくれると思う。

花豆

私は一人暮らしだが、豆をよく煮る。

ばあ様から黒豆の旨さを教えられてからだ。

ただ、豆の値段が結構高い割には、美味しい物に当たらないから買うチャンスが限られている。

つまり、その分作る回数も少ない。

ちなみに、缶詰の豆は論外だ。

黒豆の時にも書いたけど、豆は1年以内に食べないと味が格段に落ちる。

だから、安いからと購入しても、生産年度を見てがっかりすることになる。

特に今の時期は、新豆が出るから、昨年度の豆は在庫処分になる。
こんなやつを「安いっ」なんて買ってしまったら大変だ。

だから、豆を買う場所が限定されてしまう。
でも、友人のご両親、今年は自分で作ったそうだ。

先日、友人の家で夕食を食べる前にそれを「どうぞ」と出された。

この花豆、みごとに美味しかった。

彼女の味付けも上手だが、味も食感も新豆だけが持つ風味とやわらかさだ。

1年以上たつ豆は、風味も落ちるが、何よりどんなに煮てもどうしても硬くなる。

皮に張りがあるけどやわらかい豆は新豆特有の歯ごたえだ。

これぞ煮豆の醍醐味。

「少し持ってゆくかい?」と言われればそりゃあ、断るはずがない。
遠慮の要らない間柄、しっかり持ち帰り用を取り分けた。

皿に残った豆も「全部食べていいよ」と言われて調子に乗って平らげた。

さすがに「お母さんの豆、分けて頂戴」とは言わなかったから、友情が壊れていないとは思うけど、ちょっと心配だ。

バターナッツを食べたことがない?

食いしん坊の友人の自宅で夕食を食べる約束をしたので、先日作って冷凍していたバターナッツ(かぼちゃ)のスープを持ってゆく約束をした。

バターナッツ(かぼちゃ)、日本ではほとんど見ないから、八百屋での人気もぜんぜんない。

私が何度も、そして見切り品を含めて、大量に買うから、どうも不思議な「客」と思われた様だ。

この間、かごの中にまたバターナッツを見てレジのお姉さんが「もう、食べちゃったの?」と驚かれた。

この美味しさと感動を漏れなく伝え、絶品スープの話をすと、ため息しながら「でも、調理法説明しても、みんな買って行かないですねよ」と言う。

日本人は「違ったもの」を敬遠する。

たしかに見かけは細長い禿げ頭みたいだ。

「丸いくて、ぼこぼこした濃い緑」というかぼちゃのイメージからは程遠い。

バターナッツ、日本ではほとんど生産されていないけど、典型的なかぼちゃより水分量が断然に多いから煮崩れる。

というより、解ける。

ラタトゥユを作ると、トマトと解けたバターナッツが味が混じり、絶妙になる。

この夏自分の家で育ったトマトで作ったソースで作ったラタトゥユの味はオーケストラ並みの重厚感をもたらした。

そんなバターナッツのスープを食べさせた後の友人の反応は「これ、何の種類?どんな形?」と興味深深だ。

やっぱり食べたことはもちろんだが、見たこともないという。

たぶん、当分八百屋でも売っているだろうから、今度は生を持ってきてあげようっと。

チキンの手羽とキャベツのスープ

チキンスープ、固形やパウダーの「元」はとっても便利だ。
うちにも常備はしているけれど、手羽や手羽元を買ってきた時には必要ない。

必要なのは時間だけだ。

つまり、長く煮ないと骨から身が剥がれない。

火が通る程度に調理するなら、すぐに食べられる。
でも、肉はがっちりついて剥がれない。
しかも、骨からの出汁が出る時間もない。

母が作る手羽とキャベツのスープはそういう代物だ。
しかも、時間をかけないから、めんつゆで味付けする。

私的には「ありえない」料理だ。

だったら、何も手羽を使う必要などない。
胸肉や腿肉を使えばいいのに、私が作った味を覚えていて「手羽は美味しいから」と信じて疑わない。

思い込みとは恐ろしい。

ただ、最近のめんつゆ、味が向上してかなり美味しい。
でも、はやり味が尖っているように思える。

この間、自慢げに作ったこのスープを食べた時、そう思った。
もちろん、身が剥がれないから汚い食べ方になった。

スーパーで地元産の鶏の手羽や手羽元が割引されている時は、チキンスープの作る時だ。

骨から出るそのまろやかな出汁の味は、めんつゆとは比較にならない。

鍋に、手羽と葱の青い部分を放りこんで1晩いっしょに煮込む。
そうやって、保温鍋で煮込んだ手羽は、かき混ぜるだけで骨から身が剥がれるようになる。

葱の青い部分を取り除いて塩を入れればスープはほとんど完成。

後は、キャベツを放り込んで5時間ほどほおっておけば出来上がり。

味付けは塩だけ。
難しいことは何にもない。

急がなければ、瓶詰めの化学調味料、買う必要も、使う必要ないのにね。

2013年12月11日水曜日

おやつの日の誘惑

食いしん坊の友人の自宅で夕食を食べる約束をした。

そして、その日はちょうど例のケーキ屋の「おやつの日」だった。

「槍が降っても取りに行く」と豪語したケーキ、引換券を家に忘れたので、仕事の後に20分かけて取りに戻った。

土曜日夕方の大丸デパート、混雑が半端じゃあない。
槍は降ってはいないが、戦場のようなデパートの地下で人を掻き分けてようやくケーキ屋にたどり着く。

店員さんにお願いすると、奥の方からクリスマスラップされたケーキの箱を持ってきてくれる。

目立つ。
むちゃくちゃ派手だ。

周りの人の視線が集中する。

そりゃあ、そうだ。
こんな商品、店頭では売ってないのだから。

持ってきたカバンにそそくさと入れようとしたが、隣で注文を待つ人は、じっと箱を見つめていた。

この毎月の頒布会、ほとんど宣伝しないので知らない人も多い。

なんとかデパートを脱出し、友人の家に向かう。

「デザートも持ってきたよ。」と声をかけて入ってゆくと「ええっ、私も2箱、買っておいたよ」だって。

「おやつの日に夕食誘ったから、知ってると思った。」という。
たしかに、そう思った。

結局、友人とその娘、私と3人分、一人一箱分あるから、心おきなくみんなが全種類食べることになった。

私は夕食後に3つ平らげた。
友人は2つでギブアップだ。

でも、プリンが生クリームに埋まったロールケーキを食べた時は、二人とも無言になった。
30秒後には消えた。

ここのロールケーキもプリンも単品でも絶品だ。
なのに、このコンビネーション。

「罪深い味」としか言い様が無い。

食事をしてから、ケーキを2つも3つを食べることを「普通」にするつもりはないが、食いしん坊の友人がいてこそ、罪悪感も薄れるというもの。

彼女といっしょに美味しいものを楽しむ人生は、危険だ。
でも、素敵な友人と冒す危険は未知へのおいしさへの冒険だ。

なら、冒す価値は十分にあると思う。

とは言っても、食いすぎた・・・・・

毎週届く親の思いは次の世代へ

友人の家で夕食をする前、ランチを食べ損ねた私にみかんを出してくれた。

これがまたすごく美味しい。
「どうしたのか」と聞くと親が送ってくれたとのこと。

彼女の両親、旅行が好きだ。
食いしん坊の彼女のDNAの元だ。
当然、旅行でも美味しいものに反応するらしい。

九州へ旅行した時、泊まった旅館で出されたみかんが美味しくて、宿の人に聞いた。
すると、近くのみかん農家のものだった。
早速、紹介してもらいみかんを直接購入することになった。

送って貰ったみかんを近所に配ったら、その年、この農家に小さな田舎町からかの注文がずいぶん多かったそうな。

おいしいみかんを食べならそんな逸話を聞いていると、今度は「長いも持ってゆく?」と聞かれた。

これは先週、両親から送られてきた。
その前の週は味噌が送ってきたとのこと。

彼女は本当にありがたいことだと、うれしそうに語る。
親だってお金持ちじゃあないけど、美味しいものを娘や孫に食べさせたいという思い、受け取る側も「当たり前」と思っていない。

来年、彼女の娘が都会の大学に進学するが、彼女もまた、娘に食べ物を送るのだろう。

そして、美味しい食べ物は、人への思いを次の世代に届けてゆく。

感謝の気持ちは、食べ物を作る人へだけではない。

それを選んでくれる人、それを送ってくれる人、みんなが美味しいものを大切にすることで、感謝の気持ちは地上に、そして未来に繋がってゆく。

コンビニの食べ物では、決して得られないもの。
お金を出しても買えないのもの。

食べ物が満たすのは、人の胃袋だけであるべきではない。

ごんぼ

「おやつの日」というケーキ屋のイベントのために、店頭にゆくとごぼうのパイが登場していた。

今年も、この季節になったと、うれしくなった。
この「ごんぼ」という商品、とても地味だし甘くない。

かつて戦中捕虜になったアメリカ人がこの「ごぼう」を食べさせられた時「日本人は木の枝を食わせる」と怒ったらしい。

まあ、確かに調理する前は「木の木っ端」にしか見えない。

このパイ、お菓子というよりどちらかというと「軽食」に近い。
食べ物としては信州名物の「おやき」に近いだろう。

でも、外側は地元の美味しいバターと使ったパイ生地だ。

アップルパイのごぼう版ということになるが、その味の印象はみかんとりんごほど違う。

これ、ごぼうが美味しくなる季節にしか出ない。

原材料名をみると、最初が「ごぼう」。
だから、圧倒的にごぼう自体が美味しくないとこの商品は成り立たない。

そして、このケーキ屋が使う原料は本物だから、最初に食べた時はあまりのおいしさにびっくりした。

簡単に説明すると「パイの中にきんぴらごぼうが入っている」ということになるが、味のバランスはきんぴらごぼうとはかなり違う。

ごぼうの味が口いっぱい広がってから、ほんのりした甘さと辛さを味わえる。
きんぴらごぼうのように「おかず」になるほどのパンチ力は無い。

でも、その分ごぼうの風味が際立っている。
饅頭ではなく、パイに仕上げたところがすごい。

見かけよりも味。
そして調理人次第で素材は生きる。

恋人を選ぶ時も同じだ。

調理する時は、素材を殺さないように、味付けすることをお忘れなく。

2013年12月8日日曜日

やっぱりやった

先日、20日以上前に注文したりんごが実家に到着した。
箱を開けると驚くほど不細工だが、むちゃくちゃおいしい。
山のように入っていて激安だった。
友人に分けてもまだたくさんある。

自分のアパートに戻る時に持って帰ろうとしても、すでにリュックは白菜やジャガイモでいっぱいだ。

りんごを持って帰るのにも限界がある。

だから、干した。

そして、母に食わせた。

目の色が変わった。

絶対、干しりんごを作るだろうから、残りのりんごはおいしいうちに食べ切れると確信した。

そこまでは間違いじゃあなかった。
でも、その先は私の読みが甘かった。

先日電話をかけたら、案の定、干しりんご作りにはまったらしく、10個以上干したので「もうほとんどない」と言う。

まだ到着して1週間位なのに、10キロのりんご無くなったということか?

彼女、こり始めると、限度が無いことをすっかり忘れていた。

そうやってできた干しりんご、母はカラオケや運動教室の仲間に持って行って食わせて自慢した。

その反応が面白い。
彼らにとって、干しりんごがうまいことは「当たり前」らしい。
だから「どうやって作ったのか」を知りたがった。

母が「フードドライヤー」を説明すると、みんな「いくら位で買えるのか?どこで買えるのか?」ということで興味深深なので「今度教えてくれ」と聞かれた。
食べることが好きな人達は、作ることにも熱心だ。

私は「ぼける前に食べた方がいい」とはアドバイスした。
おいしいものをみんなに分けることも素敵なことだと思う。

でも、1週間で消費するのは、何が何でも短すぎるだろう、母上どの!

生クリームが買えない!

先日、バターナッツ(かぼちゃ)のスープを作るために、生クリーム求めて店を3件回るはめになった。

だって、「生乳」だけで作っている生クリームが売ってないのだ。

1件目は植物性のホイップクリームしかなかった。
2件目は大手企業の作る「生クリーム」という名称の商品だけれども、なぜか乳化剤や良くわからない添加物が3種類入っていた。

もちろん、パッケージは美しくさすがに大企業がデザインしたものだと思うが、そんなもん、私には「生クリーム」と呼べる代物ではない。

その店から、10分離れた中堅スーパーに行くと、ようやく地元企業ブランドが作っている「生クリーム」があった。

原材料、生乳。

これだけ。

商品名は「無添加純生クリーム」だ。

恐ろしいことに、生クリームというシンプルな商品にすら「無添加」が商品名になるほど、添加物を入れるのが「当たり前」になっている。

つまり、スーパーで買う商品では「添加物が入っていない」ものとなると「例外食品」ということなのだろう。

もちろん、お値段も先ほど買おうとした大企業の添加物入りより50円ほど高い。

でも、これが私にとっての「生クリーム」だ。

植物性ホイップクリームは論外だけど、これほど「生クリーム」を買うのが苦労するとは思わなかった。

そして、これほど添加物の「入っていない商品」を買うのが難しいとは思わなかった。

日常食品でこのレベルならば、コンビニやファーストフードに入っているものは想像したくない。

みんな、知らないから買うんだろうなあ。

自家製の意味

某大手新聞社の記事「鮮魚盛り→刺し身盛り…外食チェーン、相次ぐ表示見直し」には驚いた。

ここには「外食産業の常識」が図式化されている。

今後の表示は「自家製ソーセージ」や「とうもろこしの自家製ポタージュ」「自家製」を取ってただの「ソーセージ」や「とうもろこしのポタージュ」にしたらしい。

これは、ファミレスのチェーン店の話だ。

個人的には、ファミレスなどは絶対行かないからどうでもいい話だけど、これは誇大広告にしてもやり過ぎだろう。

でも消費者が「自家製」が「うまい」というと考えているのなら、大ばか者だ。

「自家製」が旨いと思われているのは、単純にそれに使われている食材が新鮮だからだ。

そもそも、なんで手作りするのか?

その人に必要だから。
高い工場製品を買わなくていいから。
そして何よりうまいからだ。

自分で作るなら、味をごまかすような合成調味料、保存料、殺菌剤は使わない。

だから「旨い」のは結果であり、大企業だって作ろうと思えば作れる。

でも、味が一定しない。
それに、保存料をいれなければ廃棄率や食中毒のリスクも上がる。
そんなことではビジネスにならない。

自分で作ると良くわかるが、毎年作るゆずジャムなんて手に入れるゆずの味でかなりぶれる。

「自家製」が「安全」とか「美味しい」というイメージを持つ消費者は、もう少し利口になる必要がある。

自家製を食べる人間は、自分の作るものに責任を持ち、それを食べる人間とも信頼関係がある。

誰かから食べ物を貰って、それを食べるということは、作ったその人を「信じている」から食べるのである。

だから「自家製」を手に入れるのは友人だけだ。
小さな企業がビジネスを始めれば、彼らを支える消費者もまた友人だ。

金を払うのは原価ではない。
金は、彼らへの信頼と彼らの能力、労働力への対価だ。

信頼がなければ手に入らないのだ。

「自家製」と呼べるような食べ物は、大企業が低価格で提供できるようなものでは決してあるはずがない。

2013年12月5日木曜日

黒豆を探す

黒豆、そのうまさは北海道産でも十分おいしいが、丹波産は本当においしい。

黒豆、つまり「黒大豆」はおせち料理に欠かせないが、丹波の人に言わせれば「常備菜」程度の食べ物らしい。

つまり、漬物と同じ程度に頻繁に食卓に上がるのが「黒豆の煮豆」だそう。

丹波方面へ旅行した時、店のおばちゃんがそう言ったから「そんな頻繁に作ったら破産する」と答えると「?」という顔をした。

東京での丹波産黒豆の値段を言うと今度はおばちゃんが驚愕した。
彼女に言わせると、そんなものは「豆の値段」じゃあないらしい。

私もそう思う。
だから、正月だけしか作らない。

都会では、金を出せばなんでも買える。

だから、おいしいものは「高いもの、高級なもの」と思いがちだが、それは違う。そういうイメージを作るのは「売る側」の都合でしかない。

そのイメージはブランド化し、本当の味を知らない人まで「ブランド」だけで「美味しいもの」を「食べた気分」にさせる。

でも、本当に美味しいものを食べているわけではない。
でも、問題はない。

どうせ違いは判らないのだから。

だから、騙されたと騒ぐ前に考えた方がいい。
自分は「誰」を信じて金を払ったのか。

それがブランドや肩書きなら、信じた自分が間違っていたと反省すべきだ。
だって、企業は1年間苦労して作物を作った人じゃあない。

金を払うのは消費者だ。
消費者が踊るなら企業はどんどん煽る。

だから、私は「偽装」広告前提の世界で商品を選ぶことになるが、それも仕方ないと思っている。

何故なら、そこには正直で、本物を売る店を見つける可能性もあるのだから。

丹波産の今年の豆にこだわる訳

黒豆の味を始めて知ったのは、30代初め。
ばあ様が炊いた黒豆のうまさに驚愕した。

そして次の年に丹波産の豆を食べた。
同じ黒豆でもこれほど違うのかと絶句した。

値段を聞くと、北海道産黒豆の2倍。

でも、それだけの価値はあると確信した。

だから、丹波方面に旅行に行った時、地元農家の出店で激安だったものを1キロ買った。

その後3日間背負うはめになったが後悔はなかった。

夏だったからその年の初めに出来たものだろう。
十分旨かった。

母に造ってやると鍋を抱えて離さなかった。

でも、1年以上経つと味は凡庸になってしまう。

ばあ様は、高い黒豆があまりおいしかったので、半分を次の年用に残した。
つまり2年目の豆だ。

それを食べたらがっかりした。

だから、乾物も鮮度が重要だ。
決して食べられないことはないが1年が限界だ。

つまり、昔の人は知っていたのだ。
1年に一度収穫したものを次の年のまでに食べる終える食生活。

でも、ビジネスになると物が余る。

黒豆だけで検索すると極端に安いものがある。
レビューがどれだけ良くても買うだけ無駄だ。

たしかにおいしいかもしれないが1年以上たった豆は買わない。
それを知っている販売者は収穫年度をきちんと書いてある。
それが安い理由だからだ。

だから、書いてない販売者は検討対象外だ。

今年の豆が出始めたら、昨年度産を早く売りたい気持ちはわかるが、正直な情報を伝えないのはお互いのためにならないだろう。

金を出すのは、その食べ物を作る人を支えるということ、WEBのボタンをクリックする前に考えた方がいい。

パワーストーンと黒豆

正月が近くなってきた。

おせち料理、数の子やかまぼこなどが入るとどうしても高い予算を設定せざる終えない。

最近は、デパートやホテルで買うことも珍しくないらしいが、価格は2万円。

驚くしかない。

ちなみにうちの予算は5000円程度だ。

何故なら、えびも数の子もそれほど旨いと思わないから買わない。

以前に「人並み」という言葉が大好きな母が「季節のものだから」と言ってかまぼこを買った。

それが、夏まで冷凍庫に残ってからメニューから消えた。

海老も同じだ。

母の背骨にはチタンが入っているから、背骨が曲がることはないし、解凍海老を焼いても大した旨くない。
(ちなみに、おせち料理にはそれぞれ意味がある。海老は腰が曲がるまで長生きできるように長寿へ願望のシンボルだ。)

その中で「予算外」で買うのが黒豆だ。

丹波産、しかも今年出来た豆にこだわるとどうしても値段が張る。

しかも、手に入り難い。

昨年まで、上野アメ横の問屋まで買いに行ったが、さすがに地方都市からは無理。

WEB通販に頼ることになるが、これが大変だ。

大手AやRで調べても如何わしい店が多い。

Aで検索ヒットした店はすごかった。
最近Aでは「店」とも呼べない事業者がたくさん出品している。

黒豆の値段が安いこの店、出品商品を見るとパワーストーンなど食品ですらないものばかりがずらっと並んでいる。

そんな店の表記を「大手Aが扱っているから」と信じる方がどうかしてる。

金を払う方はいつも「カモ」であること、消費者は学んだ方がいい。

バターナッツ、まだある

見切り品のバターナッツ(かぼちゃ)で作ったスープが1.5リットルくらい出来てしまった。

まだ、バターナッツはオーブンに入っている。
これ以上スープは作れない。

さあ、どうしようかと悩んだ。

皮を剥いだ中身は600グラムもある。

パンプキンパイみたいなものを作りたくてもクラストがない。
すでに夜も遅いし、明日は仕事だ。

だから「ケーキしかないな」と思ってレシピを調べた。

簡単なやつが見つかったが、コストパフォーマンスは悪い。
だって、たった300グラムのかぼちゃに100グラムのバターを使うレシピなのだから。

でも、バターの量を半分にして適当に作ってみようと思い、レシピの倍の卵、小麦粉で作ってみた。

でも、砂糖は指定分量の5分の1程度しか入れなかった。
だってケーキというよりちょっとしたおやつを作りたかったから。

代わりにピーカンを刻んで入れた。
で、全部混ぜた生地を型に入れてからオーブンに入れる。

ボールについているのをちょっとなめるとほとんど甘くない。

でも、旨い。

当然だ。
バター100グラムを混ぜた焼きたてのバターナッツで作られた生地が不味いはずがない。

焼きあがったのは夜11時。

でも、味見をしたくて一切れ食べてみた。
甘くないおやつとしては最高だ。

冷凍するためにトレイに並べると2切れほど皿に乗らなかった。

これをどうするか?

「明日の朝ごはんにしなさい」と理性は主張するけど、欲望は止まらない。
当然、朝までなんて待てる訳がない。

でも、夜中にケーキなんぞ食べるもんじゃあない。
朝、起きた時、後悔先に立たずという言葉を思い浮かべた・・・・・

バターナッツと格闘する

バターナッツ(かぼちゃ)、八百屋でセールになってもう1週間以上たつが、ぜんぜん減っていない。

先日の夕食会でバターナッツのあまりの旨さに「これはスープ作って冷凍ておこう」と思った。

でも、買いに行く暇がない。
八百屋に行けるのはそれから3日後だった。

だから「もう、売り切れているかも」と結構心配した。

でも、そんなこと全く不要だった。

山のように積んであるバターナッツ、多分、誰も料理の仕方を知らないから敬遠しているのだろう。

売れていない証拠に見切り品の箱にも上部を切り落としたしたやつが5つも入っている。

こっちは150円だ。
今日料理するからと思って3個ほど手に取った。

午後のシェアハウスのキッチンは誰もいない。
小さなオーブンは独り占めできる。

ともかく半分にして焼きまくった。
最低でも1時間はかかるが、1度でなんて終わらないから2回焼いた。

焼きあがったやつから皮を剥いで鍋に放り込む。
水を1リットルほど入れてコンソメを指定分量の3分の1だけ入れた。

スープらしいとろみが出てこないので、牛乳を足す。
少しスープっぽくなってきた。

ブレンダーでかき回して味見する。
むちゃくちゃ美味しい。

でも、最後に生クリームを落とすことを忘れることは出来ない。

キッチンに来たアメリカ人に味見させたら「このバターナッツ、どこで買った?」と聞かれた。

そりゃあ、この旨さなら食べたくなるだろう。
これ、調理の手間をかけるだけの価値はある。

懐かしいバターナッツ

先日、いつもの八百屋に行くとバターナッツ(かぼちゃ)が売っていた。

このかぼちゃ、アメリカでは一般的だけど、日本でほとんどお目にかからない。

普通のかぼちゃはどこの農家も作るけど、バターナッツを作る人は本当に少ない。

値段は一個300円ほどだった。
アメリカを思い出してすごく食べたかったけど、300円は高いと思って諦めた。

で、しばらくしてまた八百屋にゆくと一個200円に下がっている。
だから、フランス人の友人と食べるディナーで料理しようと思って一個だけ買った。

シェアハウスのキッチンで夕食会の1時間前、硬いかぼちゃを少しレンジをかけてなんとか半分にする。

オリーブオイルを引いた鉄皿に伏せて並べてオーブンに放り込む。

その間に、他の料理をしながら1時間ほど焼いたらすごくやわらかくなった。

ひっくり返して種の取ったところにバターを放り込んだら、見る見るうちに溶けてゆく。

友人と一緒にそれを見ながら突っついた。
想像はしていたが、むちゃくちゃ旨い。
それに甘い。

会話に参加したアメリカ人が私たちが食べているものを見て「うわぁ、懐かしい!母が良く料理していたよ。」と欲しそうに見つめる。

だから、一緒に食べようと誘った。

彼が体全体で現す喜びは半端じゃあない。

「バターナッツなんて1年半以上食べてない」と言って食べ止まらない。
ほとんど無くなった後、彼は正気を取り戻したようですまなそうに謝った。

それは別にいいのだけど、だったら、もっと焼いておけば良かった。

みんなで食べる食事はいつも美味しい。
決して、バターナッツの美味しさだけじゃあないと思う。