2013年12月17日火曜日

アレルギーと共に生活することから学ぶ

私は友人のように食べ物にアレルギーがないが、ハウスダストや化粧品にはことごとく体が反応する。

昔、ある男性とチークダンスをしたら、顔が半分だけはれ上がった。
彼が大男だったので、革ジャンに顔半分が当たっていたためだ。
革ジャンのオイルに反応したらしく、ムードも何もあったもんじゃあない。

曲が終わってトイレに駆け込んで必死に洗い落とした。
彼は完全に誤解して、2度目のデートは無かったと記憶している。

だから、埃を吸わないように、ファンデーション他、化粧品は使わないようにするだけで私の生活はなんとかなる。

でも食べ物アレルギーは、本当に大変だ。
大体、何かを食べたら苦しむかも知れないというリスクと毎食戦う必要があるのだから。

食べたいという欲望は誰にでもあるだろう。
でも、その欲望のままに食べてしまうことで命の危険まで脅かされるとは、まるで中世における暗殺の世界だ。

毒見のための奴隷を身近において、食べ物に毒が入っていないかを恐れて生きる権力者。

現代だけに「危険な食べ物」が多いというわけではない。
食べることが安心できない人々はかつて存在した。

いつの時代も課題は「食べ物を提供してくれる人との信頼関係」だ。

かつては、その信頼関係、家庭や近所、一族の中だけだった。
食べ物が工場で作られるので、現代は、その範囲が社会まで広がった。

でも、大企業が作る食べ物、自分は信頼しているから買うのだろうか。

それとも、値段と甘味と広告に釣られているだけだろうか。

アレルギーがあっても無くても、そして、いつの時代も、食べることは、生活の中で一番大変な作業だ。

それをお手軽に済ます人生なら、その人生には何があるんだろう。

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