2020年4月29日水曜日

「間違える」ことは肯定できない

障害の有る無しで人を区別することは間違っている、と心の底から信じている。そんな時に読んだ記事に反応して書いたもの。
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2019年4月22日
いろいろなレストランがあっていいと思うけど、その中で最近聞いた「注文を間違える料理店」というニュースを聞いた時、何となく嫌な気分になった。

こちらのレストラン、認知症の方々が働いているらしく、注文を「間違うことがある」らしい。だから、それも「ま、いっか」と楽しんでというコンセプトのレストランとのこと。

その取り組み自体は素晴らしいけれど、こういうニュースを見るといつも思う。何故「彼ら」を特別扱いするのだろうか、と。

条件付きで「「間違えること」を肯定すること」は、間違っている。

認知症であろうが、なかろうが、仕事をするのならきちんとすべきだ。
間違って「お金を貰える仕事」などない。仕事とはそういうもの。
コンセプトは理解できるが、このネーミングはいただけない。

ただ、どんな人だって社会で必要とされる。それは、認知症だろうか、なんだろうが関係ない。「大学卒」というような条件付きの「必要性」など存在しない。

日本においては未だ教育だって「支援学級」と「普通学級」と分けているが、イタリアには90年代から「特殊学級」という考え方すら存在しない。

英語だって今や「ハンディキャップ」はもちろん「ディスエイブル(「できない」という意味)」すら使わない。どんな人もすべて「ピープル(人々)」だ。違いの種類はその後に「with」つけて説明する。

彼らは私達と同じように社会に生きる「人」であり彼らを表現するための「特別な言葉」は不要だ。

このレストランのネーミングに感じるのは「間違ってもいい認知症の人達」と「それを受け入れる大らかな健常者」という区別だ。この区別意識が日本を世界の常識から大きく遅らせている。

彼らをプロとして雇用するのなら、彼らのできる範囲で「正しくやる」ことを求めるべきだ。その上で、私たちが変わればいい。

レストランにおいて「注文通りに料理が出てくることが当然」という考えを止める。

「注文できない料理店」でいいじゃないか。でなければ「ロシアンルーレットレストラン」でもいい。注文したものが食べられないことを肯定するにしても、彼らを特別視しないネーミングがあるだろう。

認知症だけではない。肉体的に、精神的に問題を抱えている人達に対して、表記をどう変えたって事実は変わらない。

確かに、彼らには出来ないことがある。でも、できることだって沢山ある。このレストランだって、みんなちゃんとお客様のところまで、料理を持って行けるのだから。

値段が全部同じで、選ばなくてもいろんなものが食べられるなら、その仕組みを好む人も出てくるだろう。メニューを選んでから「切らしています」と言われるより、ずっとましだ。

どのレストランでも、間違う時はある。それを、食べてもらった方が助かる時がある。
客に寛容になって欲しいのは、別にこの料理店だけじゃないでしょうに。
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言葉ひとつで人はいろいろな判断をする。だからこそ、こういう店の名前や、引いては障害という言葉を人に対して使うことは、間違っている。

障害があるからか間違っていい、なんてことはあり得ないだろう。それは一見寛容に見えるけれど、ひっくり返せば障害を持つ人と自分は「違う」と差別しているだけだ。

どんな障害を持っていても、持っていなくても、人と付き合うなら大切なことは一つしかない。その人をありのままに受け入れること。仲間として受け入れること。その人の「世話」をする必要などない。その人の力を信じて、任せてみればいい。

「我慢してあげている健常者」である自身に陶酔し「私はいい人」という幻想から目を覚ましてほしい。

彼らに「これしかできない」という枠を作ることで安心しているのは、健常者が作った社会であるという事実に早く気が付いてほしい。


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