2020年4月21日火曜日

ほぼベジタリアンの友人が言うには

シェフと話すことはほとんどが食べ物の話だった。この話は、シャラン鴨がお肉になる工程を話していた時、友人の意見を披露した。
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2019年3月17日

葉山に住む友人がいる。彼女はほぼベジタリアンだ。元々、肉はあまり食べない人だったが、今や完全に食べられなくなった。食べられるタンパク質は1個50円の平飼い卵だ。

たまに魚。彼女曰く「自分でさばける命しか頂く気がしない」とのこと。

昔ハンターの友人が居た。彼は、毎年鹿を打ちに行くことを楽しみにしていた。打った鹿は全部冷凍していた。ある時、彼に「なんで鹿を打ちに行くの」と聞いたことがある。そうしたら「食べるため」と即答された。

この2人、食の指向は異なるが、考えは似ている。「食べるため」に「命」を「頂く」ということ。私たちは他の命を「頂いて」生きている。日本人が食事の前に言う「いただきます」にはそんな意味も込められている。

私たちは、スーパーで手にする牛肉や豚肉がかつて命ある「牛」や「豚」であったことをどれだけ意識したことがあるだろうか。

値段と産地しか気にならないという気持ちは理解できるが、買い過ぎた食材を捨てる時、私たちは「何」を捨てているのだろうか。

コンビニに代表されるように、工場で作られる食べ物が身近になった時、気になるのは添加物や保存料かもしれない。でも、そのサラダチキンの「元」は命があった。

アニマルウェルフェアという言葉がある。「動物福祉」と訳されることが多いが、簡単に言うと「動物に苦痛を与えない」という考え方だ。

これは、ペットだけではなく、家畜であっても同じこと。それが、飼養の間はもちろん、屠畜時においても動物の身になって「苦痛の無い方法」で行う。(そんな方法は無いとは思うけど。)

これは、世界的に一般的になりつつある。

しかし、日本にはまだまだ浸透していない。30センチ四方の立方体で一生を過ごす鶏から、ほとんどの卵は生産されている。1パック100円のチラシの目玉として載せる卵を産む鶏に、自由という選択肢は無い。

葉山の友人が言うには「自分の体に入れるものには気を付ける。情報も食べ物も、恨みとか憎しみ、苦しみに関わるものはできるだけ体に入れない。屠畜されるまで恐怖や苦しみの蓄積された肉は食べたくない。そんな動物の念というか情を体に入れなくても十分生きてゆける」とのことで、ほぼベジタリアンになったらしい。

食べ物を粗末にしない、ということは「命」を粗末にしないということでもある。

簡単に手に入る食べ物、しかも安ければ安いほどいい。

賞味期限が切れたら捨てればいい。売れ残れば捨てればいい。
こんな考えが当たり前の時代だ。命まで簡単に捨ててしまう人間が増えるのも当然だろう。

食べ物が人を作る。

それは、肉体的な意味だけではないのかもしれない。
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シェフは、この考えを「面白い」と思ったらしい。だからと言って卵を平飼いに変更できるわけではないけれど、食べ物に安さしか求めない消費者に対してもどかしい思いは感じていた。

食ビジネスのプロが一番心配するのは、食の安全だ。食材が安心、安定的に仕入れできるところはどの街にもそれほどたくさん有るわけではない。

肉類なら家畜の居住環境はもちろん、食べるエサの管理も重要になる。餌の種が遺伝子組み換えなのか、そして農薬濃度は基準値を超えていないか、そこまで気にするシェフは今日少なくない。だからこそ、食材調達は同じ哲学を持った生産者からフェアな値段で、と考える。アメリカ西海岸ではそういうレストランや生産者がネットワークを組み始め、新しい形の外食産業が生まれている。

世の中を変えるのは、消費者一人ひとりが、何を選択するかで変わる。

手に取ったその食べ物で、体も魂も作られるのだから。

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